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2023年4月12日水曜日

Youと呼ばれた先生

田中伸子先生

 

本日会社のパソコンの古いアドレスに来たメールでこの話を見ました。

返信が遅くなってすみませんでした。

 

先生が自宅前で転んだとハガキで知り、心配していました。

 

先生は『ユー』と呼ばれていました。授業で私たちを指すときユー♫と呼ぶことで付けられた、あだ名です。

私は理系の大学に行きましたが3年のユーのクラスは文系の集団です。

2年の時意思をはっきりさせなかったので、当時の担任が『文系で良いな』と仕訳されユーのクラスになりました。

ユーとは二年の英語で持たれていましたから、明日は読みをかけられると感じた時から自分なりに読みを

テープレコーダーに吹き込んで練習していきました。平井君の読みは外人みたいだと多分?褒めてくださいました。

それなのに一向に英語はダメでした。

2006長岡で水彩画の個展をやることになって先生からお手紙を頂き、私の絵の一つ『three trees』から学生時代、電車から

見える鬼子母神を思いだすと言われてました。学生時代担任がどこの大学かなんて考えもしなかった自分の小ささを思い知りました。

返信で学習院か早稲田か聞いて合点がいきました。3年の時の先生の指導姿勢は男気だったんだと。さぞかし情けなく感じたことでしょう。

 

先生をご招待してクラス会を開き、自己紹介で私は『先生に滑り止めの学校には落ちましたが(受験当時も報告しましたが)

工学院大学に拾ってもらい、良き建築の恩師に出会い、好きな人にも出会い良き学生時代を過ごしました。

さらに卒業してからも設計競技で沢山受賞し、大学の講師も6年経験し、八王子のキャンパスに大小二つの作品を設計させてもらいました。』

自慢話みたいですみません。受験では沢山落ちましたが、好きな建築に舵を切った3年時に、先生にご心配をかけた愚弟の言い訳を

話せたことで私はさっぱりした記憶が残っています。

 

私の中には伸子先生からのメール『懐かしい木造の長岡高校校舎』のお便り、のエピソード、娘さんが長高の英語の先生だと♫

70歳の同期会(古希)が長岡で行われたとき、東京代表で私が3本締めをすることになり、

そのエピソードを話の導入にして無事に賢そうに踏ん反り帰る同期に話しかけながら『お手を拝借』をやることができました。

だらだらと書いてると、いつまでも感謝の気持ちが尽きません。

 

田中擴先生『You』の天国への旅立ちとご冥福を心からお祈りいたします。 昭和41年卒 平井真夫(35組)

 

 

 

平井さん、こんにちは。田中拡の娘の伸子です。ご無沙汰しております。

 

実は先日、父が天国へ旅立ちました。89歳でした。昨年から認知症が進み、また今年2月に倒れてからずっと入院しておりましたが、最期は苦しむことなく静かに往きました。新年早々年賀状をいただきながらお返事も書くことができず大変失礼いたしました。また生前は楽しい会にも呼んで頂き、父はその時のことをとても楽しそうに話しておりました。生前父が受けましたご厚情に対して改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

田中伸子

 





 

2018年10月11日木曜日

忘れ文:植田 清さん20180924合掌

かすかに想像は出来ましたが、余りにもショックなお別れとなりました。植田さんと言えば皆さんが山男と考えていますが、私にとって先輩は建築設計の師匠で、私が凡建築設計事務所に入社した時からの先輩でした。小柄ながらもすでに仕事は何でもできる、この仕事の申し子のような方でした。30人くらいの所員の一番のホープだと思い私は『植田清さん』を目標に定めました。二年目の年には植田さんが『初めてもチーフ』になるということで、私が一人だけの部下になり、沢山の仕事をしました。締め切りが近くなると私の仕事が遅いので泊まり込みの残業をたくさんし、深夜になると一升瓶、コップ酒で議論をしました。デザインや詳細図も二人で決めていた気がして、楽しかった思い出だけが残っています。私自身の処女作、住宅やビルもこの時期に沢山実現しました。一人でコンペに応募しても入らない時期でもありましたが、植田さんと共同設計するようになってから連戦連勝でした。更にあとから入ってくる横山剛とやり出したころからメジャーな設計コンペにも入選出来、先輩も阿蘇山麓の施設に入選されました。海外赴任を受けられたころから少し距離が出来き、何回かの海外赴任の後独立されました。なんで私を誘ってくれなかったのかと、私は泣いていました。後になって植田さんの判断を理解出来る気がしました。数年後 私は既に退職していた横山と昴設計を起業しましたが、それからは一緒にいろんなことやり呑みました。5年位前から山にも一緒に行けるようになり、沢山汗をかかせていただきました。道に迷った時でも『今なら充分引き返せる』と心強い言葉に励まされました。私が脳梗塞、心臓弁膜、ふらふら病で自粛していると、『のんびり山歩き隊』の羽賀真晤、相根先輩に平井でも行けるところを企画してくれと言ってくれていたことを心から感謝しています。早くに天国に行った、たき子さんと仲良くしてもらってくださいね。合掌 20180919植田さんの最後の山ある写真です。 平井さん 忘れ文拝受しました。 コメント挿入しましたが、送信の仕方が不明で、 流れていないようなので、下記に記入します。 植田清氏の訃報を10月4日に知りましたが、わずか約2週間前の9月19日(水)に共に山登りしていただけに、 信じられませんでした。  八王子駅で別れる際には彼は平井氏も行けるような場所を私も考えてみると言ってただけに、 突然の死去は残念でなりません。 まるで交通事故に遭ったようなものです。  親しい仲間が減るのは寂しいものです。 彼とは年齢も近く、同時代を生きてきた戦友が又一人いなくなった感じです。  今月も山に行く計画でしたが、彼を偲んで行きたいと思います。 本当は山に行かなくても、いつも下山時に 立ち寄る居酒屋で皆と一緒に一杯飲んで偲べれば良いなと思います。 合掌 相根 正之

2018年1月31日水曜日

生きるとき、頂いた言葉

God garant me the serenity to accept the things i can't change. Courage to change the things i can. and wisdom to know the difference. 変えることの出来るものについて、それを変えることの出来る勇気を、  変えることの出来ないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ 、そして変えることの出来るものと、出来ないものを識別する知恵を与えたまえ 、これは外国の人の言葉ですが、坂本龍馬の真髄というタイトルの文章にも、以下の言葉があります。 変えられるものは、変えられると見極める知恵と、それを変えてゆく勇気があれば、人生恐れるものはなし。

2017年11月1日水曜日

忘れ文:20171030加藤昭仁くん

今年の夏、君の大仕事『タイルミュージアム』を見学させてもらったのが最後になりましたね。恩師の山下司先生にも報告できたし、新建築にも掲載してもらえたし、本当に良かったですね♪♪♪ 暑い夏にもかかわらず私を出迎えてくれた君は少し具合が悪そうではあっても、弱音を吐かず運命のように病を受け止めていたね。70歳の誕生日が命日になるなんて、とんでもない日になりました。 君の命日を記録しようとしてノートを開いて誕生日だと改めて分かりました。三年前に再会したときは、毎日日本酒4合瓶を飲んでいて、それも365日67歳まで毎日、健康診断はオールAと豪語していたのに。 兎に角、加藤は素晴らしく活躍し実績を残したと思う。学生時代は一緒に丸山英治と三人で設計競技にチャレンジしたね。お互い未熟だったが、大きな扉を開く瞬間だった気がしている。東京の設計事務所時代でも 東京駅の前にいい仕事を残し、岐阜に帰ってからはAK設計を立ち上げ、平さんと良いコンビで仕事をしながら、県の協会など幅広く人脈を作り沢山の仕事をしていたね。私は心底、加藤を尊敬し君に出会えたことを 誇りに思っている。この世の中、出来る奴が先に逝ってしまうのは何故なんだろう。これからはご家族やAK設計の皆さんを上の方から見守ってやってください♪♪♪そしてたまには私と日本酒でやりましょう。合掌

2017年7月27日木曜日

忘れ文:土田良夫さま20170713平井 真夫

久しぶりの長岡、中学時代に卓球部で走った栖吉川の河原にはいつも長陵の酒蔵が待っている。中学時代のやんちゃな奴は、東北中学バレー部、進学後も中越高校で全国大会に出場した運動神経の良い奴だった。当時、高校教員で監督だった義理の兄が風呂屋兼宴会場の跡取りだったこともあり、奴は板前となり私の身近で働く姿を見せていた。どんなきっかけだったか忘れたが殿町で野武士という名前の居酒屋を元気よくやっていた時期もあった。何年が過ぎただろうか、還暦の同級会を水上でやった時の帰りに奴は半生を話してくれた。廃業、離婚、自分自身を苦しめる不幸など、言葉を口にしながらも軽く微笑む姿が、私には長岡の閑散とした風景に似て侘しく見えた。福島の原発汚染処理の仕事で稼ぎ、業務中に大動脈解離に見舞われ命拾いをしながらも、不自由な足の代わりにオートバイ移動となった奴は、なんだか陽気で自分を死に損ないと笑って見せた。それでも何回かの同級会で会っているうちに気兼ねのない奴の性格に甘えて、お互いの近況を話し合うようになっていた。この日の散歩で『レンガの長陵』を描き上げたころ小雨となってしまった。早朝、携帯電話で奴を呼び出したら、その日は軽自動車でやってきた。長陵の玄関で雨宿りする私に、元気かと声をかけてくれ実家まで送ってくれた。癌が肺に見つかった時には手遅れだったようで、全ての処置をしない方針だと聞かされた。以前にも困ったことがあると電話をしてきたが、あの時は切なかった。幼き日に引き裂かれた息子さんの突然の不幸、数か月して癌の発見、入院。5月に見舞いに行くと、あの時は悪かったなとベッドで一言。私は用事を作り見舞うつもりだったが、本人は余命を告げられていたらしく、『三太が長岡に来るまでもつかな・・・』と話し、私を苦しめたことだった。5月の終わりに長岡に行き見舞いには川西屋のアイスキャンデーを持参した。嬉しそうに食べてくれたし、それなりに元気そうで安心していたが1か月半で天国に逝ってしまった。知らせは発信人の判らないショートメールだった。奴の中学高校時代の親友佐藤久義の奥さんからの連絡だった。亡くなる一週間前に見舞いに行くと『川西屋のキャンデー』が食べたいと言ったそうだ。奴が言うには、佐藤久義は気持ちのいい奴で、足の不自由な自分を温泉に連れって行ってくれたそうだ。今頃、良夫と久義そして息子さんは天国温泉に浸かっているのかもしれない。先日、私の家の前で『ツクツクボウシ』が弱って休んでいた、水が欲しかったのか知らせに来たのか。私は草むらを探した・・・合掌 平井真夫

2016年1月22日金曜日

忘文:佐藤久義さま20151220・平井 真夫

人は人を繋いでくれる。お前さんに出会えたのは中学卒業以来で半世紀ぶりだった。身体の不自由になった土田良夫が頼りにする親友になっていたね。不自由な友達を温泉に連れて行き楽しませているお前さんを尊敬していた。 自宅に向かい入れてくれご馳走になった。キノコ汁、茸ごはん帰りには御櫃の大半をおみやげにと気前の良かったお前♪♪♪あの楽しかったふるさとの匂いを持っているお前さんに会えることがこれからの楽しみだった。あれから一か月お前は逝ってしまった。 料理の旨さと友達思いそして垣根の低さはこれからを予感させてくれていた。心不全はなぜ?豪快に秋刀魚を焼いてくれたし長岡の懐かしの写真集も返さないといけない。返す相手がいないそんなことが合っていいのか。お前さんに教えたいことがあった。 『 魚焼き網に酢を『キッチンペーパーに酢をしみこさせ』塗ると身が網に付かずひっくり返して色よく焼くことで完璧に焼ける♪♪♪ 先日長岡で友達に御馳走になった時身がぼろぼろになっていて気にはなっていたが、自分がやっても同じこと♪♪♪『酢』は素晴らしい♪♪♪』天国で秋刀魚を焼く時の参考にして欲しい。

2015年5月15日金曜日

忘れ文・家老秀那夫見ていてくれ♪♪♪平井 真夫

 随分時間が経ちましたが私の方はもうじき喜寿(まだ早いですが8月です)、歳をとった人はやたら大きめに歳を言います。会社には週3回行き、中学生以来の奴と月2回のカラオケで帰りに蕎麦屋で一杯やってざる蕎麦を食べて、渋谷駅の雑踏をくぐり抜け中野行きバスに乗り帰宅してます都会?は便利で長岡の田舎者には分かりやすく助かります。先日長岡高校の同窓会、同期会で久しく会ってなかった奴の何人かの様子がおかしく、ボケが来てました。確かにそんな歳なんですが、受け入れません。現実には転んだりしたらそこからボケるようです。お母さんの介護で皆さんが消耗しない事を祈ります。坊やが178とは羨ましい、私は中学生で147、高校に入って伸び始め三年生では174大学でも少し伸び175位でした最近は縮みはじめ173位です家老は早熟でしたから奴は早めに異性にアプローチしてました(私の想像)私は奥手でしたから、身長やあちらの方も奥手なりの成長です未来があり、成長する兼池家は楽しみです、また教えて下さい遅くなりましたが暑い季節が来ます皆様上手く乗り切って下さい最後に家老は新潟ブルース(以前も話した)が得意でした私の方は頭と早口を鍛える意味で早い歌に挑戦してます平井真夫20240523

おはようございます先ずはメール受け取りましたが後日返信しますね。会社のパソコン新しくして届かないものもあるようです探してみますね。重ねて改めて返信します平井真夫20240213

iPhoneから送信

拝啓 平井真夫様

 

ご無沙汰致しております。今年でもう17年目という歳月が経過していましました。命日の9日から少し日が経ちご連絡も遅くなり申し訳ありません。

 

もしかして、わたくし昨年のこの時期のご挨拶は出来てましたでしょうか?こちらに送信履歴が無かったもので。もしそうなら失礼致しました。

(か、誤って消去してしまったか。2022年のは履歴有りましたので)

 

義父の家老が亡くなった当時、まだ4歳になる手前だった娘も今は大学生となり来年は成人式の世代。今は学業もさることながらバイトも頑張り、インカレのサークルも楽しんで学生生活を元気にエンジョイしております。かたや当時まだまともに一人歩きも出来なかった息子も高1で、家族の中で一番背が高く(178cm)なってしまいました。母である妻とは毎日何かにつけて親子ケンカが絶えない日々で、まさに思春期真っ只中であり、ある意味すくすくと順調に大人の男への階段を歩んでおります。娘は自ら勉強タイプ、息子は言われてもしないタイプ。と姉弟でありながら性格は真反対。ただし、息子は人たらしの才能があるため、世に出たときは息子の方が本領発揮すると睨んでおります。()

 

一方わたくしも妻も50代なりの年の重ね方となり、食する量は目減りしても、体重は目減りせず()

まだまだ若いじゃないの!と平井さんに叱られそうですが、20代~30代の時のようにはいかない現実をつきつけられて日々頑張っております。

 

義母は昨年夏頃から兆候があった認知症の症状が日に日に増し専門医にて認定となり、投薬治療をしております。日常生活は今はまだ問題なくできてますが、記憶の喪失がいわゆる普通の高齢の方よりスピードが早くなってるようで、そこの意志疎通がかなり、難しくなってきています。まだ丁寧に話をすれば思い出しはしますが、数分前に話をした事が思い出せないといった状況が日々増えているような感じです。

 

今は2日とあけず妻が実家に行きある程度の世話をし、週末は義弟が泊まりにきたりして、身内で義母のいわば介護を行っている状況です。まだこれから進行していくのでしょうが、家族みんなで向き合いながら過ごしていかねばなりません。いずれは施設に入らなければならない可能性も否定できません。

 

平井様はお変わりなくお元気ですか?

くれぐれもお身体ご自愛頂きお過ごしなさいますよう。健康体が一番ですが、そうは言っても老いは防げません。あるがままを受け入れて人生楽しく生きれるのが何よりですよね

毎日楽しくお元気にお過ごしなさってください‼️

 

もうすぐ春も近づいてきます。

過ごしやすくなりそうです。

それでは、また。

 

兼池君明

本日も命日だとスマホ君が朝から知らせてくれていました。お子さんのダブル合格おめでとうございます家老が眼を細めて喜んでいる事でしょう。昨年2回の入院をしました5月は救急車で軽い気持ちで入ったら緊急手術、退院後3ヶ月で再建手術、今は元気に会社に行ってます。会社以外には誰にも話さない入院の件ですが、兼池さんには少し話しました〔笑い〕後期高齢者になりましたが、まだまだ健康そうに頑張り、楽しみたいですお母さんにも我々〔家老共〕はそんな歳だけど先輩でしぶとい人を見本に生きていきますとお伝え下さいまたお子さんたちと青春のジレンマや過ちの時期、季節が来るでしょう。開花は間近です。見守るおうようさもお父さんお母さん頑張って下さい♫20230209眞夫

iPhone
から送信
 2023/02/09 18:03

 

平井真夫様

 

この時期のお便りだけになり、いつもすいません。

ご無沙汰しております。兼池でございます。

本日29日は義父命日で今年16年目になります。

 

今年も我が家の子供たちの成長をお伝えしますと

二人とも高校と大学のダブル受験の年でしたが、

両方とも本人の第一志望の学校に無事合格することが

出来、親として何とか今年一番の懸念材料が終わりました。この春から、また新しい人生の扉を開け大人に向かって成長してくれる事だと思っています。

 

平井様もお身体お健やかに日々お過ごしですか?

コロナも一頃と違って随分落ち着いてはきましたが、

まだ感染きっかけに重症化する人も居ますから

くれぐれもお気を付け頂きご自愛ください。

 

コロナや戦争、世界不況などこれからも先行きが

不穏な事ばかりの昨今ですが、あまり将来を不憫がってくよくよしてもキリがないですから

家族みんなで笑門来福でこの先もお気楽に日々歩んでいけたらと思っております。

 

いつも取りとめないメッセージで申し訳ありません。

明日は都心はなんだか積もる予報のようですが

寒さまだしばらく続きそうですね。

どうぞ日々お元気で。

 

兼池君明


兼池さん♪♪♪遅くなりましたゴメンナサイ。

 

会社を休んだりお医者さん(定期健診)で会社のパソコンを触ることなく今日になりました。

返信が遅くなりす済みませんでした。(転送でスマホでも見ることはできていますが)

 元気な様子が手に取るように分かるメールありがとう♪♪♪。

娘さんは勉強と社交ダンス?(まだやってるかな)頑張ってるようでうれしいです。

家老は地頭がよく社交的なところがありましたから、手の届かないくらいに高いステージ(高ければ高いほどいい奴、人間も混じっている)

を目指してほしいです。(大学の先のことを口にするくらいだといいけど)♪♪♪

息子ちゃんの走力は心臓の強さ、家老の持久力は抜群だったし箱根を目指してほしいけど、身体を壊さないで科学的な訓練をしてほしいです。

そのためにもその方面の勉強(科学)に励んでほしいものです~男(狩猟能力)は空間認識力があるらしいから♪♪♪

 私のポンプの弁は中程度の弁膜症ですが、坂道はゆっくり、階段は避けながらも(たまには頑張りますが)、医者には元気ですと答え、

日常生活ではそこそこの中年です。一人の時はマスク、サングラス(花粉用白内障対策)イヤホーンで音楽を聴きながら

電車の出口近く(感染対策)に立って席を譲られないように突っ張っています♪♪♪

 14年、確かに還暦の時でしたから早いものです、あの時あたりから私の体にもひびやしわが増え、理想的ではありませんが

年は取りました。やたら若い時の思いを回想してしまいます。家老の奥様にも(家老は面食いだと思いました、一度お会いしましたから!!)

コロナのワクチンを早く打って、楽しい時間を取り戻せることをお祈りします。平井真夫20210217


平井様 1年ぶりのお便りです。この1年はまさに予期もしなかったようなコロナで大変

な年でしたがお元気にお過ごしでしょうか?今日の29日でもう14年目を迎えました。

私たち家族も、義母とは可能な限り一緒に居ないようにしており、本人は寂しがっては

おりますがもうしばらくはやむをも得ず。子供たちも昨年4月から新高校生、新中学生

となった年にいきなり6月まで自粛期間となり、まさに未経験の領域を過ごした2020

でした。平井様もコロナで医療機関がひっ迫するなか、体調管理などの診察は大丈夫で

したでしょうか?引き続きお気をつけくださいませ。我が家もおかげ様でみなコロナも

かからずこれまで過ごしてきております。娘は希望の高校に無事入り、今は元気に通学

しております。息子は中学部活も陸上部に入り、中1の持久走も1位を獲得しました!親

は勉強はしなくてもいいから目指せ!箱根駅伝を!と今から口酸っぱく言っております

。本人は全くその気がないですが(笑)毎年この時期だけのたった1通のお便りでしか

ございませんで申し訳ありません。平井様もどうかこのような時期ですので体調管理。

くれぐれもお身体だけはご自愛くださいませ。それではまた。


拝啓 平井真夫様 日々元気にお過ごしでしょうか。 今年も2月9日が明日やってまいります。 2009年から数えて11年目となりました。 今年は世間では大変な年明けとなり 今も毎日新型肺炎の話題が報道されておりますが、 平井様も御身体充分お気をつけください。 義父も逝去してから11年ですので、 もうすっかり我々の中では想い出のひとつとなってきております。 子供たちは上の子が3歳前、下の子が1歳の時でしたので かなり義父の想い出の記憶は薄れているようで、 下の息子は殆ど覚えていない。とよく話をしております。 恒例の今年の我が家情報ですが、 中学三年の娘が、かねてより強く志望していた私立女子高を受験し、 無事合格となりました。 高校生活は更にとにかく勉強一本で突き進み、楽しい青春も捨て、 その先の夢(希望大学への入学)に向かってひたすら勉強に勤しむそうです。 下の小学六年の息子ですが、これは勉強大嫌い人間で 学校の宿題も塾の宿題をも逃げ回り、嫁に首根っこ捕まれ、 引きずり倒されながら、やっつけで勉強をしております。 息子は昨年11月、小学生生活最後の持久走大会、優勝しました。 小1から小6まで、他の子を抑え6年間タイトル防衛を致しました。 正直、ものすごく褒めてやりました。 当日は自身も6年連続の重圧だったのか、朝御飯時に突然泣き出し(笑) 持久走直前も えずいてたようですが、何とか頑張りました。 本当に陸上極めて、箱根駅伝で走ってくれと本人に懇願しているのですが、 全くその気はなく、中学生になったら他の部活を思案中だそうです。笑 義母も毎日元気に過ごしております。昨年両ひざの手術をしましたが、 術後の経過がすこぶるよく、元気に歩いておられます。 小生51歳と嫁47歳がもうお互いアラフィフ世代となりましたので、 毎日、腕が痺れるだの肩が回らないだのといった会話になってきております。 平井様も御年73歳になられてますよね。 まだまだ今の時代、70代なんて若い世代だと思いますが、 健康にはくれぐれも用心して御身体お大事に。 無理なさらず日々お過しださい。 では、また。 兼池君明 拝啓 平井真夫様 この時期恒例のお手紙が数日遅くなりまして申し訳ありませんでした。 カレンダー的に2/9から連休となり2/9は家族で10年目の命日と言う事で 軽く食事会をしましたが、他の休日も少々用事が重なり更に週明けより 仕事の方で慌しく動いておりましたので、ご連絡するタイミング遅くな りました。ご心配お掛けし申し訳ありませんでした。 今年で10年目というひとつの節目を迎えました。 義父にお世話になった8年間を越え、もうすっかり今では家族の中 では昔の思い出話に花が咲くようなやりとりになってます。 普段より事ある毎に思い出したりはしますが、日に日に悲しみという 感情は薄らいではきております。 平井様もこの一年お身体崩されること無くお過ごしでしたでしょうか。 我が家は昨年同様引き続き皆更にパワーアップしてすくすくと成長しております。 義父が亡くなった時は3歳だった娘も今年は中学3年生でいよいよ人生の分岐点 受験が控えており、日々自主的に勉強机に向かって勉学に勤しんでおりまして、 私の中学時代とはまるで正反対の様相です。 部活の社交ダンス部でもそれなりに大会でも成績を出しているようで、 まさに「掃き溜めに鶴」な娘です(無論、それなりに反抗期真っ只中ですが) ところが当時1歳、今度小6になる息子は姉とは正反対(つまり私と同じなのですが)で 、 とにかく勉強せず、宿題やらず、家では言うこと聞かず。でして(笑) ほぼ毎日母親である家内ともいい意味でバトルしております。 しかし、学校ではちゃんとクラスの中で楽しく過ごし、友達の面倒見もよく 勉強はそこそこですが、通知表の先生方のコメント欄を読む限り 「ほんまかいな?」と家で見せる姿とのギャップに親は首をかしげておりますが 嬉しくも感じております(笑) 11月にあった持久走大会もまた学年で1位を確保し、これで小1から小5まで 青山学院大学ですら成し遂げれなかった大会5連覇を我が息子は達成致しました(笑) あと1年 ラストイヤーである小6でも1位になれば、ほんとにこ奴を どっかの有名な陸上部にでも入れて、末は箱根駅伝!と周りの我々が勝手に盛り上がり 酒の肴にしておりますが。 今年もそんな感じで慌しく毎日を過ごすのであろうと思っております。 義母も毎日元気に過ごしており、多少足腰が弱っているようですが大丈夫です。 平井様も日々無理なさらずお身体お大事になさってください。 小生は今年で50歳ですが、まだまだこれからです。 平井様始め、諸先輩方に負けないように頑張って行きたいと思ってます。 では、くれぐれもお身体ご自愛の程。 兼池君明 お久しぶりです🎵故郷長岡の雪の多さは58年が話題になっています。しかし私達は中学3年生の38年(38豪雪)を思い出します。高校受験のあと4月に入っても雪が残っていました。娘さんの社交ダンス、中学でましてや公立で凄いですね、広く社会を知る機会は素晴らしい事です、秀那夫が眼を細めて喜ぶ姿が眼に浮かびますよ🎶4年生の息子さんのマラソン3連覇はまさに秀那夫の遺伝子だな~‼奴はませていたからそろそろ好きな子が出来て、君明お父さんをビックリさせてくれるかもね🎵昨年2月9日はふらふら病(右耳前庭神経の炎症?)で救急搬送され、一時は以前発症した脳梗塞の前兆かと焦りましたが。1年前の寒い時期を如何に過ごすかが当日の気がかりでした。更に会社33年目に成りますが久しぶりに税務署が入り、問題なくお帰りいただきましたので、スタッフ皆で高級?焼肉店に行き久し振りにお酒を呑みに出掛けていました。いつも皆さんの家族の歴史を楽しみにしています🎵49歳は働き盛りです、私はバブルに巻き込まれ、切ない時期でもありました。働き過ぎないで家族を見守る今の生活を、大切にお過ごしくださいね❤私も古希を迎える事が出来た事に感謝しています🎵肉体の丈夫さよりも生き方を学ぶことが大切なんだと考えるようになりました。親からもらった命、大切にお互い人生を楽しみましょう❤49歳頑張れそして多いに楽しんでください、羨ましい~🎵20180210平井真夫/2018娘婿さんからのメール平井真夫様 こんにちは。家老秀那夫の婿の兼池でございます。また今日2月9日が訪れました。 2009年に亡くなってからはや9年目となりました。 平井さんには一番最初に小生からご連絡させて頂いたのが2011年1月下旬の事で、 こちらもあれから数えて丸7年が経過しました。 今年の冬は全国的に歴史的寒波を受け寒い日々が都心でもいまだ続いておりますが 体調など崩されず日々お過ごしでしょうか。 既に長岡の実家は人手に渡り、現在私たち家族は長岡に縁遠くはなりましたが、 今回のテレビ報道で大雪の長岡など画面に出たりするとやはりみんなで気にしたりして ます。 小生は秀那夫さんの婿になったのが今から17年前、当時32歳の年でした。 あれから歳を重ね今年49歳を迎え立派な中年の領域となりました。 無論、平井さんのような人生経験豊富な諸先輩方から見ればまだまだ若輩者にも 程があるかと思っておりますが、17年という歳月は俗にいう「長いようで短い」ではな く、 「短いようでやはり長い」月日だったと感じずにはいられません。 さてここ最近の定例報告ではございますが、我が家の子供たちも娘が中学1年生 息子が小学4年生になりますます元気に成長しております。 娘は3月の早生まれ12歳であるにも関わらず、既に母親と同じ背丈(160cm)となり、 いまどきの女子として成長し反抗期真っ只中におります。 部活は全国的に殆ど例がないらしい公立中学校での社交ダンス部に所属しており、 毎月のように大会に出ては世間を知り、鼻っ柱を折られ、日々ダンスに精進しているよ うです。 息子は今回も11月に行われた学年マラソン大会で1位を取りこれで1年生で1位を 取ってから3年連続の防衛となりました。 毎度のご説明ですが、マラソンに関しては秀那夫さんの遺伝子を大いに受け継いでおり ます。 義母が長岡の姑から聞いたというお話ですと、幼少期の秀那夫さんはとにかく狭い場所 等に 行きたがり、また入りたがる小僧っこだったそうです。 うちの息子がまさに現代のそれでございまして、よくもまあそんな遺伝子情報を受け継 いだものだと 家族で話しております。 また、教えてもいないのに睡眠時に両腕を頭の後ろに組んで熟睡する仕草や 無意識に組んだ両足をゆさゆさと揺らす癖なども、秀那夫さんが亡くなった当時、 まだ1歳だったわが息子は祖父の癖など知る術もありませんので、 これはまさに家老家代々のDNA遺伝子情報としか言わざるを得ません(笑) といつもいつも、年賀状のような年に1度のお便りでもございますので あれやこれや無駄話、今回もたくさんさせて頂きました。申し訳ありません。 今年はまだまだ寒さが継続しそうな冬です。 平井様におかれましても日々の体調管理、ぜひともお気を付けくださいませ。 それではまた。 兼池君明 /お久しぶりです♪♪♪私がお爺ちゃんならどんなにか嬉しい今年のお便りでした♪♪ ♪ このアドレスは会社で完全に守られていて大切な方にだけお知らせしていますので、 逆にめったに開くことがありませんでした。 今年2/8にゴルフ場で足腰がふらつきプレーを中断、翌日朝から何回かのふらつきが 出て、 もしかして以前に発症した脳梗塞の再発か? 救急車で慈恵大学病院に行き、以来2週間ほどふらつきと戦っています。 リハビリは日常生活、ゴルフはやりなさい♪♪♪とのことで月曜日には ふらつきながらやってきました。そんなわけで会社もさぼり気味でやっと本日開いた わけです。 ご心配しないでください!69歳はそこそこの年なんだと会社のものは理解しています ♪♪♪ 私の行きつけの店(新宿三丁目、馬鹿とけむり(03-5368-1068))なら自分の家の延 長です。 大人だけならここでいいでしょう♪♪♪ 会えることなら私は大歓迎です♪♪♪ 長岡の卓球部の連中に会ったら兼池さんのお子さんたちの話をしましょう♪♪♪ 私たちが中学時代によく走った栖吉川の絵を添付します。 お元気でそして隔世遺伝のこの様の才能が大いに楽しみです。 20170224平井 真夫 /2017娘婿さんからのメールお久しぶりです♪♪♪私がお爺ちゃんならどんなにか嬉しい今年のお便りでした♪♪♪ このアドレスは会社で完全に守られていて大切な方にだけお知らせしていますので、 逆にめったに開くことがありませんでした。 今年2/8にゴルフ場で足腰がふらつきプレーを中断、翌日朝から何回かのふらつきが出て、 もしかして以前に発症した脳梗塞の再発か? 救急車で慈恵大学病院に行き、以来2週間ほどふらつきと戦っています。 リハビリは日常生活、ゴルフはやりなさい♪♪♪とのことで月曜日には ふらつきながらやってきました。そんなわけで会社もさぼり気味でやっと本日開いたわけです。 ご心配しないでください!69歳はそこそこの年なんだと会社のものは理解しています♪♪♪ 私の行きつけの店(新宿三丁目、馬鹿とけむり(03-5368-1068))なら自分の家の延長です。 大人だけならここでいいでしょう♪♪♪ 会えることなら私は大歓迎です♪♪♪ 長岡の卓球部の連中に会ったら兼池さんのお子さんたちの話をしましょう♪♪♪ 私たちが中学時代によく走った栖吉川の絵を添付します。 お元気でそして隔世遺伝のこの様の才能が大いに楽しみです。 20170224平井 真夫 /兼池君明さん♪♪♪メール嬉しく拝見しました。 休日前日は鎌倉のお寺を廻りながら、沢山お参りを無意識にしていました。 のんびり山歩きの仲間との久しぶりの散策です、私に合わせて軽い行程でした。 一方、私たち夫婦もお参りを日常のことのようにする、そんな年なのかもしれません。 3月26日で脳梗塞から2年が経ちます。私には後遺症はありませんでしたが、 日常生活では随分と気を付けるようになりました。軽い運動は大切ですね。 妻もそれなりの心配事抱えていますが、お互い喧嘩しながら競うように 健康な生活を心掛けています。笑い♪♪♪ 散骨の件羨ましいことです。 私は妻に『散骨をお願いしたい』と言ってはいますがなかなか納得してない感じです。 家老は何処の海に居るのかな?三浦半島?伊豆半島?はたまたに日本海? なかなか出来ることでななっかたことでしょう。どちらにしても羨ましいことです♪♪♪ 遺族として最高の孝行をしていると思います。 娘さんや息子さん♪♪♪いいですね!足が速い、マラソンが強かった秀那夫を思い出します。 卓球部の仲間にも長岡に帰ると会いますので報告が楽しみです♪♪♪ 私たちの走った栖吉川の土手や長陵の煙突(高橋酒造の煉瓦造りの工場)を思い出し、 帰った時には栖吉川の土手から水彩画のスケッチしています。(添付) 機会があったら、その土手を息子さんに走ってもらいたいものです♪♪♪ おじいちゃんの走っていた道だと感じながら。 そういえば昨年新宿で個展をしました。2008長岡で個展をしたときに家老と綺麗な奥さんと 仲良く来てくれ、2つの作品を購入してくださいました。その際『ねえ、ママ♪♪♪』と奥さんに 声掛けする彼のシーンが今でも目に焼き付いています! 奴は面食い(美人を好きな人を言う)だなと思いました♪♪♪ この話は以前もしたかな??お許しください!・・・今でも思い出します♪♪♪ 昨日から花粉が飛び始めたのかクシャミがでます。(私は少しだけです) 故郷は雪の中、それよりは関東はいいもんです! 一家の大黒柱も身体に気を付けて、飲みすぎたり、仕事の為とはいえ無理のし過ぎの無いように この一年をお過ごしください。またの便りを楽しみにしています♪♪♪ 20160212  平井 真夫 /家老のDNAは繋がってるぞ♪♪♪2016婿さんからのメール・・・・平井真夫様 拝啓 今年もこの時期が参りました。 平井様も日々お変わりなくお過ごしでしょうか。 あれからもう7年が経ちます。 義父と初めて血縁になってから亡くなる迄の期間と、 亡くなってから今日迄の年数がほぼ同じくらいになりました。 光陰矢の如しですね。 私達家族はすっかり日々の生活に追われる毎日です。 言うことを聞かない子供達に嫁は毎日カミナリを落とされ、 義母はただただ可愛いと目を細めている日常です(笑) 昨年のメールご連絡からのこの1年。 初夏に義父生前の希望でもありました海への散骨を 散骨葬として企画しているクルーズ会社に頼み、 家族全員で行いました。 義母も亡き義父の想いを叶えられて、 心のモヤモヤがすっきりしたと喜んでおりました。 DNAを受け継いだ我が子供達も小5(娘)と小2(息子)になりました。 昨年11月も学校の学年別マラソン大会がありました。 娘も前回とあまり変わらない順位(8位)でしたが、 息子は1年のとき同様、2年でも学年1位を獲得!防衛戦に勝利しました。 しかし、今年は他の子供達もみな体格が大きくなり、 1年の時と違ってゴール直前迄は激しいデッドヒートでした。 前回1位の我が息子を昨年1位を逃した上位選手陣達が 今回は特に大会前からライバル心むき出しだったらしく、 練習で履いた靴を本番では履いてくるな!とか 内緒で俺に1位を譲れ!と給食時間に囁いたり、とか 小2の分際で既に心理戦があったようです(笑) それでも亡き秀那夫の血を受け継ぎし我が息子 意に介さず優勝をもぎ取りました。(笑) しかし、来年はさすがに周りのお友達の成長と前哨戦が一層激しさを 増すやも知れません。 どのような結果にせよ子供達が日々元気に成長してくれるだけで、 まずは有難い孝行娘・息子だと思って夫婦共々感謝しております。 今年もつたない話になりましたが、何だか年に1度この時期には 平井様にお便りを出さないと気持ちが落ち着かない自分がおります(笑) 立春も迎えこれからの季節が楽しみな時期となりました。 足元はインフルエンザが流行っているようですので、 平井様におかれましてもご用心なされご自愛下さいますよう。 いつも亡き義父を偲んで頂き本当に有り難うございます。 ではまた。 敬具 兼池君明 /2015婿さんからのメール・・・・平井真夫様 拝啓 ご無沙汰しております。年に一度この時期ばかりのご挨拶になっております。家 老秀那夫の義息の兼池です。早いもので亡くなってから丸6年目を迎えました。平井様 もお変わりなく日々お過ごしでしょうか。 私達も毎日賑やかに日々生活をしております。秀那夫の孫である上の娘(小学4年)はダ ンスが大好きで現在ジャズダンスを習っており、将来ダンサーの夢をもっております。 息子(現在:小学1年生)は今の時期にはありがちなウルトラマンになる夢をもっており ます。笑 こ奴が平成の子ではないような、とんでもなくやんちゃな男の子に成長しており、毎日 毎日、叱り飛ばし張り倒しながらもその成長に逞しさを感じております。 平井さんに嬉しい報告があります。昨年秋の事になりますが、小学校の学年別マラソン 大会があり1年生男子の部で実はぶっちぎりの1位でした。あまりに2位との差が開きす ぎるので学校の先生から走行途中にペースを落とせ!と息子に指示が出たくらいです。 そのくせゴールしても何ともなかったように息もあがらずシレっとしてたので、当日は 義母と嫁が観戦してたのですが、嫁は我が子ながら唖然とし祖母に至っては号泣したと いう事です。 前々から平井さんからもお話聞いておりました、義父の中学時代のお話。完全に我が息 子は秀那夫の血を受け継いでおります。息子が産まれた時も義父は自分の干支と同じ亥 年であり、かつ60年に一度の金豚年なので大物になるぞと大喜びしていたのを思い出し ます。義母からは「掃き溜めに鶴」とも言われてはおりますが。笑 将来楽しみではありますが、現在の日々を見る限りホントにこいつは大丈夫か???と 思うような毎日ではありますが、立派に成らずとも健康に普通に大人になってくれたら と願ってる次第です。 少しだけ前になりますが、昨年夏に撮りました子供達の写真です。初お披露目ですが秀 那夫の面影が少しだけでもあれば幸いです。長々とどうでもよい文章ばかりでいつも申 し訳ありません。この時期まだまだ寒い日々が続きますのでどうか平井様もお体大事に 日々お過ごしください。 それではまた。 草々

2015年3月19日木曜日

忘れ文・ふたりへ・平井 真夫

中村優・菜生結婚に向けて 1:本日はこの良き日にお招き頂き有難うございました。中村優くん・菜生ちゃん、御結婚おめでとうございます。私は『馬鹿とケムリ』のファンの一人であります。縁あってお店の設計を担当しましたが、中村伊織さんを中心とする皆さんを大好きです。私はありとあらゆる人・友達・若者・偉い方を連れてお店に行きます。皆さんはいつも温かく接してくれ、感謝しています。先日、中国の方をケーキのサプライズで歓迎してくれ、招待した日本人ともども、すごく盛り上がりました。中国のかたがたも忘れられない、いい思い出が出来たようです。それも伊織さんを中心してとする若者たちが温かく接してくれたからです。このような意味で、私はこの仲間たちを尊敬しています。その仲間の優くんと菜生ちゃんが『家族になる』ことは本当にうれしいことです。 2:中村優くんの創るお刺身の盛り合わせにいつも感動しています。予約のお客さんを連れて行くとき、最初にお刺身の盛り合わせが出ます。お客さんは必ず感動し、嬉しそうな顔をしてくれます、すごく綺麗だからです。私はデザイナーですから其のあたりが嬉しくて鼻高々なのです!!優くんは余程いい腕なのでしょう!!!料理に興味のある私に正直です、其のあたりも真面目な青年だと感心しています。 彼は腕が良くて、ハンサムですからお客さんもほっては、置かないだろうと思っていたら、彼は他には目もくれず、こんなに『素敵な菜生ちゃん』を射止めました。優君の目がいいのは、九州佐賀の土地柄とご家族という、いい環境が彼を育ててくれたのでしょう!! 3:菜生ちゃんは以前女優さん志望で、私は舞台も見に行きました。中身は大変難しく、たくさんの人たちがビニール傘をもって舞台一杯に動いていました。彼女の美貌は傍で見ないと分かりません、もったいない舞台でした!!意味のほうは、本当の所、忘れてしまいました。今や菜生ちゃんの舞台は『馬鹿とケムリ』です。お客さんの前ではいつも元気よくキラキラしています、周りに気を使い、みんなの中に良く溶け込んでいます。スタッフには他にも、それなりにいい男が居るのですが、優くんとの出会いが余程、良かったのでしょう!!! 4:これからは家庭とお店の二役、二部構成、二回公演で大変でしょうが、人生を楽しみ、一杯!一杯!愛され、愛し合って元気な二世を作ってください。 美しいこと!!それだけで社会貢献でしたが、これからは少子化対策にも貢献して2人のDNAをここに御列席の方々に見せてやってください。そんな風に命のバトンタッチをしていくことが親孝行、おばあちゃん孝行、恩返しでしょう!! 5:最後に一番大切なことを伝えます!!一人一人が持ってる価値観は違うものです。二人の出会いはきっと価値観が重なる部分が多くあったのでしょう。だから一歩進めて、二人の交じり合った『共通の価値感』を作ってください、そして『素直な気持ち』でたくさんの人たちの意見も聞き入れる、楽しい家庭を作っていってください。 本日はおめでとうございました。            20110206平井真夫 新宿京王プラザ 42階富士の間

2014年12月9日火曜日

忘れ文・Te.O先生・平井 真夫

市内には強豪校が沢山あり、我が東北中学は卓球後進校では在ったが西山先生、大淵先生、黒崎先輩の指導の下、市内大会で第三位を勝ち取った。もう一つの第三位(東中)は、不満で表彰状を破ってしまうシーンが眼に焼きついている。私たちにとっては精一杯頑張って貰った満足の表彰状だった。戦い後の仲間の顔に夕日が眩しかった・・・・・三年の時、土曜日の練習後、社会人の黒崎先輩は自腹で皆にラーメンをご馳走してくれた。近くの中華屋さんから出前を取ってくれ、卓球台を囲んで皆で照れくさく、でも嬉しさ一杯でありがたく汁まですすった。市内大会会場で理科の西山先生からお疲れさんと頂いた『丸美屋の粉ジュース』を水道取り付けのアルミカップに溶かして飲んだジュースの味は満足感の味だった。又、越路中学から赴任し卓球部の顧問をしてくださった大渕先生からクリスマスの晩に一年生をしごいたことで大目玉を食らい、一方市内の強豪越路中学との練習試合を組んでいただき、大きな自信と目標を持たせて頂いた。全てが充実した幸せな想い出だ。 大渕先生ありがとうございました、安らかにおやすみください、合掌

2014年9月17日水曜日

忘文・TU.Y先生2・平井 真夫

4月20日は建築の恩師、大学時代に建築のあり方を教わった先生の誕生日だ。私の入った大学に美術部があり、勧誘されて入ったクラブに油絵で尊敬できる先輩(酒井正夫さん)がいて先輩の言葉で4年のゼミを決めた。『建築設計をやるなら山下司先生だろう!!』尊敬する先輩の言葉は正しかった。私のやる気スイッチは大学4年に入ったものだ。研究室には同期に丸山英治,加藤昭仁、山口等がいた。四年になってからの付き合いだったが尊敬できる先生のお蔭で一年間、刺激し合って大いに語り合った。尊敬できるライバルを見つけることで私の気持ちは高まっていった。『建築の空間、組み立て方、精神』をこの山下司研究室で感じ取る事が出来たことは大きい。社会人になってもこの考えは応用が利きどんどん自信を持つ事が出来た。また美術部にも建築の秋田秀治がいて、到底かなわぬ存在であったが大手建設会社に入った彼は建設現場で才能を発揮していった。先生の教え子は沢山出来る奴がいて数えたらきりがないくらいで、先生の教育者としての才能に敬服している。ゴルフの帰り先生の運転する車に同乗させて頂いた折、自分が後輩や教え子に持っている素朴で一番恥ずかしい質問をしたとき、先生曰く『人の才能や作品に嫉妬はしないよ』・・・・私はこの人を越えたくてまた越えられると信じていて、時には謝恩会の席に生意気にも先生と喧嘩をして飛び出したり、社会人としての仕事を見て頂くも、けなされながらも意見されることが嬉しくて泣いてしまうことで、仲間をしらけさせ独り占めしていた。尊敬する先生が私の心の中でどれだけ大きく偉大がったはまだまだ解らない・・・・桜の花のように嫉妬なんかしない人間になって、空間でひとびとを幸せにしたい♪♪♪

2014年9月16日火曜日

工学院大学竣工式の言葉

工房・化学実験棟竣工式挨拶『感謝の言葉』 思えば40年前、大学入学式の前日キャンパス内にあった寮に入ったのがこの地との出会いでした。キャンパス、イコール寮生活でした。工事中、今の学生達を見る度に昔の友達や自分を探してしまいました。 この冬は日本海側の豪雪に助けられ、関東は晴天が続く毎日でした。日本海側が雪だと関東は晴天になるという皮肉な天の恵みに恵まれ、実のところ本当に助けられました。その間、私に出来ることは、代々木の自宅に近い明治神宮にお参りすることだけでした。 しかし、工期は厳しく7月25日から6ヶ月、1月に上棟し残る2ヶ月弱が仕上げと外構工事でしたが、最後のこの時期が一番厳しい時期でした。特に感謝したいのが清水建設の施工力レベルの高さでした。鉄筋、型枠の正確さと工程を推進する力。13000人もの人々の上に立ち、導く底力を見てもらいました。統括責任者の伊藤工事長、そして現場に設計打ち合わせにと尽力された久原工事長、奥崎主任、本当に有難うございました。朝早くから夜遅くまでいつ寝ていたのか、本当によく頑張って頂きました。 敷地内の大きな桜や梅は工事、機械操作の邪魔でしたが残すことが出来ました。感謝しています。40年来の歴史的要素は守らなければなりません。最近のキャンパスの風景にパブリシティーの欠如を感じていました。庭であれ、斜面であれ、階段であれ、廊下であれ、テラスであれ、それらを大切にすることで社会性が身に付く学生が育つと考え、設計しました。 ふるさと母校に帰る気持ちは嬉しい毎日でした。学生寮の仲間は兄弟。建築の波多江先生、武藤章先生、山下司先生は父親。私にとって母はクラブ活動の美術部でした。キャンパス全てが思い出です。これからのキャンパスが環境整備に尽力され、心豊かなエモーション(EQ)が評価される工学系の学生が巣立って行くことを祈念しまして、設計者の感謝の言葉といたします。有難うございました。20060401工房・化学実験棟設計者 株式会社昴設計 平井真夫

2013年9月6日金曜日

忘文・Ryou.K様 0906・平井 真夫

昨日、夢の中でお前の命日にはこの文章を残そうと考えていた。やっと書く気になったともいえる。お前が逝ってしまってから、皆に落ち込んでしまってる私を気遣う声を沢山聴いた。私たちは小学から中学高校と同じ学校に通った仲だし、尊敬する大滝陸奥先生を慕った仲でこれは誰にもわからない、共有感だった。そのことで繋がってるから、人から見れば特別に親しく感じたことだろう。 お前は60歳になり益々活躍中だった。仕事上や世の中のどんなことでも、どんな時も弱音は吐かず勝算があるように見えていた。俺にはクライアントの建築をカタチにしていくときのプロセスに納得がいかない時があったが、お前にはそのことを感じなかった。負けだろうが、落としどころだろうが、全てが勝利のようになってるのだろうと感じてしまっていた。弁護士と言う仕事に向いていた人間だったんだろう。 お前の後からキンドウが逝き沢山の優秀な人間がこの世を卒業していった。先日長田伸一君の葬儀でお坊さんの言うことには長田はこの世では事を成し遂げ『先生・神』になられたと言われていた。そんな意味ではお前さんは『先生』になっていったんだと思えるようになった。大滝陸奥先生は小学校の先生であったが、教科を教えてくれた先生ではなかった。友達の大切さ、ともに生きる、差別をしない心を教えてくれた。だからその時のクラスの仲間『こねこ』は特別で象徴的な存在となった。 今そのことを思い続けられるのも先生が亡くなられたとき、お前さんが知らせてくれ、私たちこねこは再会出来たんだ、感謝している。 私の背後にいつもお前さんがいる日が何年も続いたが、最近それが無くなった。教えてもらったありがたい指導やアドバイスは心に焼き付き、今の自分になっている。でもまた『三太!!悪いけど違うんだよ!それはな~♪♪♪』 皆に会いたいときは『三太!お前が声を掛けないとな♪♪♪』いつも言ってたけど、『お前だろう、みんなに会いたいのは・・・』そして大好きな先生の命日に逝ったお前の代わりに、たくさん人に会ってやるから・・・・合掌

2012年5月31日木曜日

忘文・長部敏秋君・平井 真夫

私はいつまでも後悔している・・・・お前が定年まで勤め上げ、いくつかの合併にも耐えイエロージャケットを来た時の誇らしさ、職を全うする生真面目さを心から尊敬していたよ。 お前が数年前から外に出るのをおっくうにしていたこと、最後に俺の耳に残るお前の声『忙しいや!』いつも長岡に帰り時間があると、お前の奥さんの愛想のよさに甘えて突然の電話をしていた俺。 クラス会の案内も返事もくれないお前!嫌われたのならあきらめる!しかし一応その理由が聞きたかった。失恋に似ていて別れるのに理由はいらなかった・・・そんな誤解だけは解いておきたかった。 小学生のお前を人が何と思おうが『けた繰りの名人』『おねえちゃん』を一目置き、いつも仲間で敵にはならなかった、争うこともないおとなしい性格、 中学ではひと足早くラブレターをもらい、俺に見せつけたな!そんな軟派な女は付き合うな!とお前がアドバイスを求めたから、やめておけと言ったのに・・・楽しそうで、卒業の時はボタンをあげたと一人前の青春を俺に見せつけやがって! 高校も別々だったがよくお前のうちに行ったものだ。俺が東京に行く時も『がんばれ三太!』と中学卒業と同じ手紙を届けてくれたお前! 学校の休みで長岡に帰ると、仕事場近くのビヤガーデンで飲んだり、早目の結婚式には安サラリーマン汽車代だけで精いっぱい!お祝いは俺の油絵だったね! 俺の結婚式には校歌も違う長岡高校の連中の前で、音頭を取ってくれたのが大人に見えた・・・お前に子供ができた新潟生活にお邪魔した時、1つくらいのかわいい娘が私の懐で寝ていたことは わが人生!最高にドラマチックで可愛い思い出だった・・・肺がんも末期と知らされ落ち込んでいたことは先日聞いた・・・『三太から電話がこんな!』と言っていたそうだが・・私には電話を出来なかったんだよ!更にお前に嫌われたくなかったから。そんな気持ちを誰かに伝えてほしかった・・お前の訃報を聞いても、後悔だけが残って泣けなかった!もしかして俺を許していなかったらと思うと・・・『平井君そんげんことなかったよ♪♪♪』お父さん病気だからできんかったがよ!苦しかったろう・・モルヒネを使うと医師から言われたと奥さん!苦しんでるお前を俺は見舞えないだろうから・・・・20120126お前の訃報は仲間が教えてくた、俺がお前に会いたがってることを知ってる友達だった。2月1日雪の深い珍しい年
、私がたまたま長岡にいるときに、お前は最後に時間をくれたんだな・・・又な♪♪♪ 20180716 今日奥さんから電話があったよ♪♪♪三人で写っている写真が出てきて、三太が元気でいるのかと心配してくれての電話だった。あれから6年経ちおいらもなかなか線香をあげに行きにくかったんだよ♪♪♪奥さんに約束をしたから次回長岡に行ったらお線香をあげに行くからな。いろんなこと思い出そう♪♪♪合掌

2012年2月22日水曜日

忘文・To.N先輩・平井真夫

18歳学生寮に入って間もない夜中、寮の扉をたたく激しい音と『起きろ!』と2年生によるstormだった。 普段、新入生の態度が気にいらなかった上級生による説教だったが、高校で馴れていたので平気で、威張る上級生の中、一人頭のよさそうな先輩がいるのを冷静に見ることが出来た。翌日の夕飯時、食堂に行くと眼が会い、親しく話をするようになった。本やノート(実は借りたままになっていて別荘に置いてある)を貸していただくようになった。バイクに乗せてもらい、ボーリングをやらせてもらい、八王子のbarにまで連れて行ってもらった。barのおばさんにおつまみの『人参の糠漬け』を食べさせられるも、本当のところ人参が嫌いだったが、そんな場面で餓鬼っぽいことは言えず、無理して食べたら、食べられるようになっていた。全てが初めての経験で、いろんな機会を作り、弟のようにしてくれた。国立に先輩が引っ越すと下宿に遊びに行き、話しこみ、建築評論が面白いと、友達(寮の先輩に)の顔を見て笑いながら『こいつ面白いだろう!』と褒めてくれた。遊びに行っても帰ってこないときには下宿のお兄さん(一ツ橋大)に廊下の押入れから布団を出してもらい一人で泊まった。雑木林が綺麗な環境が気に入り、私も国立に引越し(国立はな!女トラック一杯に男一人!この甘い言葉に魅かれた。)4年でみんな先輩や後輩に頼んでどえらい企画の卒業設計をやるのが伝統だったこともあり、先輩に頼むと!国立駅前で忙しくて何も手伝えないが!と豚カツをご馳走してくれた・・希望を失いながらも食欲は、美味しい!と反応する自分に腹が立った。卒業し社会人になっても、現場監督の先輩のお金で随分ご馳走になった。新宿角筈、2階の小さなbarカウンターに飲んだビールを一列に並べて豪快に呑んで騒いだ。ゴールデン街の近くに宿を取り(取ってもらい!)あの中で随分呑んだ・・あんまさんを頼む先輩を横目に羨ましくもあり、俺にはどうしてこんな感じがないのか?不思議でもあった、まだ24歳くらいだった、無理も無い。早朝、なれた調子で旅館の女将に(下宿のおばさん感覚で)コーヒー入りホットミルクをもらい、出社した。先輩は既に勘定を済まして出社していた。四谷に現場があり、私の事務所、現場がお互い近く、アドバイスをしてもらった。独立時も随分随分!お世話になった、また第二の職場でも手間のかかる折角のゴールデンウイークを無駄にし、見積もりをしてもらった・・・なんでも甘えた自分が不思議、不思議でしょうがない。こうやって思い出すと益々偉い借りばかり!何として返そうか?出来ることならお互い長生きしながら・・・笑って生きたい♪♪♪
人生のなかで一緒に、母校の仕事ができたことは最高の喜びであった・・・現実は甘くは無い!!がお互いが信頼できる間柄、先輩後輩とは、大学とは・・・あの日叩き起こされなかったら今日はなかったことだろう! 定年退職に向けて大学の後輩としてお祝いと、山頂を極めた大先輩に感謝と祝福の言葉を残します。 山登りは下山を成し遂げて初めて『登山』とのこと、これからも宜しくお付き合いください。                            20120222  6ヶ月後輩平井真夫

2012年2月9日木曜日

忘文・Hi.K様0209の・平井真夫

今日は君の命日で、そして私のかけがえの無い仲間の誕生日♪♪♪お見舞いに参宮橋の花やさんでアレンジメントを作ってもらい顔を見てきました。お昼過ぎにパソコンを見たらメッセージが入っていました。勿論数日前から私の手帳には誕生日と命日が仲良く書いてありますから・・・とは言え嬉しいものでした。 今年は長岡も大変な雪で、こんな時仕事で長岡に行ってきたよ。声を掛けてくれたのが北中卓球部のキャプテンK君です。1/31日は旧交を深め翌日実家に寄ると、長岡の親友からメールで新聞の訃報欄に仲良しの名前を発見した旨・・・その夜長岡駅前で東北中学卓球部仲間で一杯!!君の話や仲間の話し・・・・雪の長岡を後にする新幹線では寂しくなるよ・・・『こっちに居る者は健康に気をつけ、みんな仲良く残された人生まっとうしよう~!』こんなメールよこすな!なんて言えないから・・・『ウン』とだけ返信!トンネルを抜けたら別世界・・・
39年の豪雪は皆で校舎の屋根から飛び降りたり・・身体は遠心力みたいに飛んでいくけど、想い出や思いは重力がないから不滅です!誰かが誰かを思ってるうちは存在するんだよ♪♪♪クラウドなんてそっちでも見ちゃってるんじゃないのかな!・・・想い出を一つ、長岡で夕方呑む約束をしておきながら、先約に引き止められて2時間遅刻!君はカウンターの出口側でとなりに豊作、よく待っていてくれた、あの借りいつ返そうか??当分借りておくけど♪♪♪・・そして婿さんへ!パソコン見てるからね!!こんな日が沢山あるといいね♪♪♪な!

2011年6月3日金曜日

忘文・富山のお母さん・平井真夫


友達のお母さんが3月15日、94歳で亡くなった。私の母は22年前83三歳でなくなった。
富山には友達と『風の盆』を見るために男二人の旅だった。10年前の話だ。富山と新潟は日本海側の似通った風土があるのか、私は友達の家に立ち寄った時驚いた。間取りがそくっりで仏壇のある部屋から北に10畳6畳、縁側、庭へと見通す景色が長岡の実家の夏を思い起こさせた。

私たちが家に入るなりお母さんはお昼を作り始め、息子はそっけなく『外に食べに行くからそんなのいらないよ』本人お勧めのラーメン屋があると言うのだ。『この親不孝もの』とは言わない代わりに私は年老いたお母さんの作ってくれた『素麺』を食べた・・・涙が出そうなのをこらえながら頂いた。

高校時代夏になると決まってお袋の作るお昼は『玉ネギをスライスして煮干で煮た暖かい汁』『食べやすく丸めた素麺』いつもの味噌汁の椀で食べる素麺だった。たまにあさつきをかじるが辛い!!御昼は逃げ出したかった!親不幸だった・・・それと同じものだった・・懐かしかった・・おふくろの亡くなった歳でも元気だが息子の無神経な言葉にしょんぼりしてるお母さん・・・ツーんとしてくる。

お兄さんの車で駅まで送ってもらう車中・・涙ぐんでしまった・・おふくろに会えた気がした。

富山のお母さんも晩年は入院されてたらしい・・肌身離さず持っていた財布の中に私のハガキが折りたたんで入っていたと・・友達から電話があった。

前略 00ちゃんの故郷が見たくて、のこのこ付いていきました。お昼に素麺頂きましたが、私の亡くなったお袋のいつも作ってくれた素麺と同じ感じのもので、とても懐かしく久しぶりにお袋に会えた感じがしてとても嬉しくて、懐かしくて感謝しています。いつもお袋に心配を掛けていましたので大きなことは言えませんが、『かおるお母さん』にはこれからも永く、お元気でいらして下さい、そしてお袋を思い出させて下さい。
新湊で一番良かったのは『かおるさん』に会えたことです。ありがとうございました。  早々

2010年11月1日月曜日

忘文・友達を送る・平井真夫


今日は友達を天国に送った。告別式で娘をおくる年老いた母親を見た。昨日の通夜では挨拶できたが今日は一歩はなれて、一厘のお花を足元に添えさせていただいた。君の周りにドイツ語の辞書が置かれ、最後の姿はかっこよく美しかったよ。友達たちがあんなに君を慕っていたのかと思い知らされたよ。私たち男仲間も君がいてくれたから楽しく集まれたのに、ましてや私の知ってる女友達はこれからどうしたら、何処に集まればいいんだろうか。私が心配してもしょうがないが、君がいないとつまらないね。数年前から体調が悪いと言ったけど君のゆったりしたムードに完全に騙され、余分な心配をさせてはくれなかった、そんな君はCoolだったね。平井君さ『最近ヨシトシさん!料理美味くなったよ!!』そんなことばかり言ってたけど、自分の行く末を予感してたんだね・・・最後の電話もそんな会話だった気がする。逆さまだと怒られるかもしれないけど、お母さんに君を思い続けて長生きして欲しい・・愛しく思い続けて生きて欲しい・・何と言っていいのか解らず、私の口から出た言葉です。勘弁して下さい・・・集まるときは降りて来いよ!   合掌

2010年9月1日水曜日

忘文:今日の花・平井真夫


今朝のウォーキングで代々木公園に白くて可愛い花が咲いていた。ふとしたことで人は癒される。

最近先輩や友達が山登りに誘ってくれる。もともと山には興味がなかったが絵を描くこと、自然に接すること、観察すること、花を喜ぶ人が居ること・・・そんな中で自分に『花の絵が描けるか』問いかけることになってきた。
公園や神社を歩く時は感じなかったが、山で体力の無さ、自力の無さを感じながら『花』を見るとき、壊れかけていく肉体よりも清清しく咲く花が美しく強く感じられる。

誘ってくれる友達がいて張り合いがあると感じている。人生に付き合って貰っている実感がある。だから今日はいい花が目に入った。今日はいい日だ。

2010年6月29日火曜日

東北中学卓球部・平井真夫


東北中学卓球部の仲間は決して強くは無かったが、市内大会では強豪に混じって第三位と成った。男子は上級生が途中全員退部となり、2年からは最上級生に成ってしまった。独自の工夫で自分たちをしごき、更に社会人となっていたOBの黒埼先輩に土曜日特別に習っていた。たまにラーメンなんかご馳走になり、懐かしい思い出ばかりだ。大またを開いて体勢を低くした先輩のシャープな体から繰り出す球は、威力があり、余程速い脇のしまったスイングをしないと弾き飛ばされた。

半世紀前の思い出のファイルも、重ねて仕舞ってあったページをインデックスを頼りに開いてみると、多少かすれていても其れなりに見えてくる。元気だった友達、綺麗だった人、強かった奴・・・隣りの人は16歳。あいつもイメージの世界ではこの席にいるようだ。昨日はトンボがよく私たちの廻りを飛んでいた。やっぱりトンボには神様が宿ってるんだ。

東京での卓球部同窓会の最後はスカイツリィーを目指して浅草まで来た。雷門の近くに家老秀那夫君が社長をしていた会社があり、元気に働いていた・・・スカイツリィー、雷門、富士山、明治神宮・・・クラブ活動の友達は今になっては有難く、懐かしく、嬉しく・・あのくそ暑い故郷長岡と仲間、私にとっては掛替えの無い宝物だ。

2010年6月12日土曜日

北越銀行北親会の皆様・平井真夫


拝啓 上海万博研修旅行お疲れ様でした。
早速、写真焼き増しの準備をしながら、いろんなシーンを思い浮かべています。約350枚をインデックス印刷しその中から選んでいます。もっとも!!私の写真のほとんどが建築と料理ですから大したものはありません。思い出は沢山残すことが出来ました。

集合場所からサッサと入国する方法。ガイドさんとすぐに仲良くなるコツ。ホテルは最高でも夜中は誘惑もあること。中華料理を平等にサッサと食べるコツ、ウエイトレスさんは無口で皿を合体すること。取り皿は無闇に替えてはくれないこと。万博はドンドン回れば3.4時間で充分、それ以上はかなりの根性を必要とすること。呉さんはレソンとレストランを言うこと。私たちはおじいちゃんだと言うこと。痴漢は犯罪でないこと。高速道路事故は警察に罰金200元?まずお支払いしてから喧嘩をすること、罰金には領収書が発行されないこと。津上のビジネスモデルに学ぶこと。三宝ラーメンは岩田副会長のアドバイスでこれからが急成長の予感。モリビール(呉さん風に!)の100階展望台474メートルとは超高層ビルをも見下ろすもの。やっぱりスリはいること。夫婦は仲良くすること。など・・・再会を楽しみに! 敬具  

2010年4月20日火曜日

忘文・No.K様venezia06006・平井真夫


悲しい別れとなりました。あの優しくて兄貴思いの妹さんが一番悲しいことでしょう。その妹さんから連絡を頂きました。私は間接的にでもキンドウに語りかける時、三太は解放されていました。間抜けでひょうきんでいられましたから・・・・少しでも病を忘れてくれる瞬間があれば私は自分も救われていました。
妹さんはかわいそうです、自由のない君を心配し新しい住まいまで用意したとのこと、君は折角引っ越したのにたった二日しか居なかったんだって・・・言葉がありません。
よく頑張ったんだね。これからはわがままでない兄ちゃんとして妹さん心の中で、彼女を励まし、生きて下さい・・・心が全てです。これからのキンドウは行きたいところで自由を手に入れ、言葉の隔たりも無く、何処かの国の空に心を解放し、時には遅い桜の下で近藤僚三君と一杯やってください、そして思い出を語ってください。昔の楽しかったこと、辛かったことも今、あの世が良ければきっといいのだと思います。
私も今日は考えます。人間は友達とのこの世での別れに直面したとき、どう考えたらいいものか。

『悲しみは新しい芽』だと信じたいものです。先日桜の巨木が倒れましたが既に新しい可愛らしい芽が出居ていました。それもまた素敵なことでしょう。
同時代を生きたことを感謝しています。『緋色のサラファン♪♪♪♪♪』いい夢を見てください 合掌

2010年4月17日土曜日

忘文:野に咲く花・平井真夫


忘文をたまには恋文と書いてみたくなる。街の絵を描く時『好きな街しか描けない』と書いたとき、人生の大先輩で素敵な叔母さまが印象的だと言って下さった。言葉足らずで教養に一番遠い私はそんな言葉でしか語れないだけなのだが・・・。
人物の彫刻が好きで、もし彫刻なんか始めようものなら、どれだけのめり込んでしまうだろうか・・・で今から人物に入り込めそうも無い自分を私は知っている。
四月も半ば、桜吹雪の後今日、東京で雪が降った。故郷は再び雪国に舞い戻ってるのだろうか?・・16歳の時の長岡は大雪で高校の入学式にも雪が残っていた。代々木公園の人の目につかない所に白い花が春を待っていた。野に咲く花は美しい。故郷に恋心を抱けたら又新しい絵がかける気がする。私を育っててくれた全てのことに感謝したい。

2010年4月8日木曜日

忘文Te.I先生venezia06014・平井真夫


                  1970年卒で先生とは入れ違いでした。縁があり1983年警視庁の八潮派出所の設計者に選んでいただきました。後日新宿、工学院大学の中で偶然お会した折、感謝を申し上げると軽い感じで『君はもっと遊びなさい!』と声をかけて下さりました。以来その言葉の意味を考え続けています。後年エステックビルの地下の店で偶然お見受けしました折、2005年大学から『工房・化学実験棟の設計者に撰んで頂いたこと』を報告すると、冗談を言いながら喜んで下さりました。めったにない機会と思い『先生写真を撮らせて下さい』と申し上げると、『肖像権は??』とか言ってらっしゃいましたが、ツーショットの写真を撮らせて頂きました。先生が私にかけて下さったお言葉と共に大切にしております。初めてお会いした東京都の目白の迎賓館、緊張した空間の中、先生だけはゆったりと中央の席、笑顔で迎えて下さりました。生涯忘れません。ご冥福をお祈りいたします。20180131本日は伊藤テイジ先生のご命日です、追加の想い出を一言。新婚の妻が旅先から宿に電話予約をしたら、面接があるとのことで午前中に宿に伺い首実検をされ合格したのは良いのですが、そこは離れの布団小屋。おかみさんが来られた時に私がスケッチをしていたら『学生さん?』と聞かれたので、工学院大学卒の建築屋の卵と自己紹介をしました。先生が工学院の学長で東大生時代からの御贔屓だと嬉しそうに話されました。後日小説、『あおによし』の主人公のおかみさんだと知りました。(だから食堂での他のお客さんが素直な感じだったのか)私たちの布団が従業員用の使いこんだ様子に気づかれ涙しながら綺麗な布団を交換してくださりました。その後数年して、私は迎賓館のフカフカの絨毯にビビりながら先生に首実検された訳です。私の人生のターニングポイントは『あおによし』だったのかもしれません。先生有難うございました。合掌

2010年3月17日水曜日

忘文To.T君venezia07010・平井真夫


君には感謝している。中学時代の何もいいことの無かった時代に、唯一夢中になれた卓球部での記憶。もし君がいなかったら?そして君がカットマンになっていなかたら?私たちはあの時代を今になっても共有できただろうか!!

君は途中からカットマンとなったにも拘らず、めきめき強くなり市内で5本指に入る選手になった。僕たちは講堂を独占し、上級生の居なくなった(上級生はある事情で全員首になった。)クラブで工夫をしながら頑張った。マラソン、うさぎ跳び、腕立て伏せ、素振りなどメニューを作り頑張ったね。いい思い出だが市内大会3位が色を添えてくれた。指導してくれた黒埼先輩、西山先生、大渕先生にも感謝しているが、何と言っても君とMi.M主将の存在だろう。俺なんか大会一位になった南中との準決勝で、下級生に20対15、あと一本で勝つところから逆転負けしてしまったことが今でも思い出される。その後2回同じことがあった!!いつも初めの時のことを思い出す。勿論同じような危機をクリヤーしたこともあるよ。

いつも強くて辛抱強い君の健康の速やかな回復を期待してるし、粘りに粘って卓球のように、病気を押し返してやって下さい。どんなに強い相手でも簡単にはやっつけられなかった君を仲間に持ってよかった。みんなのレベルアップに、仲間意識を持てたことを感謝している。気の弱そうで勝負にしぶとい君を皆が尊敬してます。そして愛おしいから今でも会いたくなるのです。少し弱いくらいが可愛いかも・・・・。

2010年2月22日月曜日

忘文23222のMa.K様・venezia07025・平井真夫


今日は記念すべき2が5つ並ぶ日です。君の誕生日は年号は一文字異なるけれど君は2にこだわっていたね。一年も前からこの日が何かのきっかけになったらと、考えていました。友達でもお互いそれぞれの人生があり、縁のなくなることもあります。今日は学生寮時代の友達と飲むことになりました。40年くらいのブランクはありましたが一人は10年位前からもう一人は5年位前からたまに、集まります。二人とも音楽バンドのスターでした。私にとっては高嶺の花でしたが、今は・・・・バンドの一人は自分のコサートの100曲目の歌を『花』決め、変わり行く沖縄を見聞きして来たという。語り部の『命こそ宝』という話が印象的だった。命に関わる職業、立場、でなくても共通する考えなんだろう。・・・文章は1ヶ月おいて途中から書き加えたが、君のご家族が健康で平穏であることだけを祈っています~更に時間は過ぎ今日は2017 12月です。先日、長岡の古希の会で野口に逢いました。君の懐かしい写真を見せてもらいました。涙を堪えるのが精一杯でした。あれから10年がたちました。寂しさから同期のクラス会をしたりしていますが満たされるものではありません。~逢って誤解があればじっくりはなし、謝るべきは謝りたい~共通の真の友は今も語らない、私も語らないでも逢ってすべてのことを完結させたい~時間がない。

2010年1月19日火曜日

忘文:高村真夫様venezia07009・平井真夫



郷土名士 高村真夫様

新しい年に兄弟のことを考えた。私にとって人生の進路を提供してくれたありがたい先輩で肉親である。親よりも教養に満ち溢れ私を導いてくれた。21.12歳違いの兄貴たちと同じ高校に入れるように導いてくれた。

私の名前は高村真夫画伯(新潟県、長岡高等学校の出身でお父さんは長岡藩士)の作家名『真夫』を長男が母校の著名人の中から見つけて、親父に提案してくれたことを小学生のころから聞いていた。何となく意識はしていたがその道で生きていくことはしなかったがちょうどいい感じの思い入れがあり、感謝している。

また仙台の兄のお蔭で建築設計の世界で生きていくことを決めていったが、さっぱり先は見えないものの、何かしら嬉しいことが待っているとだけは感じていた。大学でやったことのほとんどは面白くはなかったが、三人のデザインの先生に影響を受けたことで社会に飛び出す勇気を持つことが出来た。正直怒られてばかりだったし怖い先生ばかりであったが、大きな言葉や理念の中に建築の手立てを感じることが出来た。叱ってもらったこと、褒めてもらったこと、全体授業の中で良いサゼッションを頂き心にしみたものだ。取り組み方を示していただいたことに心から感謝したい。
そして高村真夫さんには名前を頂いたことに感謝したい。絵を好きになり、描いてきたことで人生楽しくなった気がしている。想っていることをカタチにしておきたいものだ。 高村真夫(しんぷ)画伯

2009年9月8日火曜日

忘文・TO.T君venezia07008平井 真夫


To.T君その後持病と格闘共存してる旨、豊作君に聞きました。食事療法も大変でしょうが頑張って下さい。
小学校から運動会、中学では卓球部といいライバルでしたし、君といい勝負出来れば試合でも戦えると、いつも目標にしていました。一流のカットマンだったと思います。特に耐えるしぶといスタイルは、持続し続けなければならない私としては、自滅する前に無理な攻撃をやらなければならない、厳しい対戦でした。君のスタイルが今こそ発揮される時です。先日の仲間への手紙を添付します。
東北中学卓球部OB各位
20090816日の夏の一日はとても気持ちのいい一日でした。
昔あの講堂で夏のくそ暑い日をハッキリしない目的だったけど、強くなりたくて、上手くなりたくて、自分を鍛えていたことを思い出します。

お互いいろんな思いがあると思うけど、あの時間やその後歳をとって(35歳ごろ)皆に会えるようになり、いろんな思い出が出来ました。それでも最近は歳とっていくだけみたいに思うこのごろだけど、先日の、あの日だけはなぜか、車を飛ばして長岡に向かう自分が、空想の中で栖吉川を走っている自分だった。気持ちだけあのころに戻ろうとしていました。

写真を送ります。この写真もいつかあのころは若かった!!なんていう日が来るでしょう。
幹事文夫君有難うございました。写真の人にしか手紙を書きませんでしたが次回を楽しみにしてることなんか、今回出られなかった人にもお伝えください。有難うございました。

                  20090908平井 真夫

2009年9月1日火曜日

忘文・MA.M先生venezia06002平井 真夫


MA.M先生へ
先日奥様から電話を頂きました。先生の作品に関してです。東京展で先生の遺作展を企画しているそうです。奥様が先生のアトリエを探して、作品の一部が無いことに気付かれたのか?大学にあることを思い出されたのか?作品の点数まではっきりされていました。私は先生と作品の取り付け時に苦労したこと、到底私たちには止める事すら出来なったこと、現実は工事会社の大工たちが二人がかりで一日かけて壁に固定したことを説明しました。上野の都美術館へは出せませんが、八王子キャンパスの建築に永久に展示され、あの『律01-Ⅰ.Ⅱ』のような美しい連続模様の作品はきっと誰かの心に残っていくでしょう。今度奥様を案内します。
2008年の暮れは突然でした。久しぶりに美術意匠部の先輩や仲間にあの席で会うことになりました。一級上の先輩たちは先生とは兄弟みたいに学生時代やその後を過ごされ、幸せだと思っていました。私も先輩たちにそっと混じって家に泊めていただいたり、2006年は二人で、あのアトリエで酒を酌み交わせました。なんといっても竣工式の挨拶原稿を先生の研究室で直前まで弄り回し、クラブ時代を語ることが出来ました。先生には特別に会に出ていただき私の挨拶を聞いていただきました。泣いてしまって声は詰まりましたが語っておきたい事は言えました、いい思い出です。学生時代に美術部でよかったと今更ながら感謝してます、いろんな意味で美術部でなかったら今の私は居ません。また先生のお蔭で東京展に出すことも出来ました、本当に有難うございました。そして出来ればもう一度飲みたかったです。安らかにおやすみなさい。20090901平井 真夫

2009年8月28日金曜日

新ホームページ完成venezia07023・平井 真夫


前回のブログから約一ヶ月過ぎたが夏休み中もホームページのマニュアルにかかりっきりで、大変だった。
簡単に出来るソフトといわれていたがなかなか厳しかった。先日62歳の誕生日を御蔭さまで迎えさせていただいた。仙台の兄貴には『マサオは身体を使う趣味ばかりで・・・』とサンザン言われてきたが、今回は大変であったが、どうしてもやっておきたい作業で人頼みには出来ない?(お金がかかる!!)ことであった。歳の割にはかなり頭は使ったと思う??チャレンジャー精神はまだまだありそうだ。携帯の赤外線通信みたいにデーターがアップロードしていく様はすごいと思ったし、便利なものは利用してみたいものだ。若い人の爪でも煎じて飲みたいくらいだ。
建築設計は大変でもやりがいのある仕事だ。写真には載せられないが頭の中でいろんなことが思い出される一ヶ月であった。もっといい写真をお金をかけて撮っておけばよかったと改めて感じたものだ。そして人間としてもっと誠実にクライアントのためになりたかった、と反省しきりでもあった。10人10色で価値観の異なるいろんなクライアントにいかに応えるのか、どんな風に信念を通すのか、古い街並みはほっとする。そんな街がこの国に出来るのだろうか?