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2017年11月1日水曜日

忘れ文:20171030加藤昭仁くん

今年の夏、君の大仕事『タイルミュージアム』を見学させてもらったのが最後になりましたね。恩師の山下司先生にも報告できたし、新建築にも掲載してもらえたし、本当に良かったですね♪♪♪ 暑い夏にもかかわらず私を出迎えてくれた君は少し具合が悪そうではあっても、弱音を吐かず運命のように病を受け止めていたね。70歳の誕生日が命日になるなんて、とんでもない日になりました。 君の命日を記録しようとしてノートを開いて誕生日だと改めて分かりました。三年前に再会したときは、毎日日本酒4合瓶を飲んでいて、それも365日67歳まで毎日、健康診断はオールAと豪語していたのに。 兎に角、加藤は素晴らしく活躍し実績を残したと思う。学生時代は一緒に丸山英治と三人で設計競技にチャレンジしたね。お互い未熟だったが、大きな扉を開く瞬間だった気がしている。東京の設計事務所時代でも 東京駅の前にいい仕事を残し、岐阜に帰ってからはAK設計を立ち上げ、平さんと良いコンビで仕事をしながら、県の協会など幅広く人脈を作り沢山の仕事をしていたね。私は心底、加藤を尊敬し君に出会えたことを 誇りに思っている。この世の中、出来る奴が先に逝ってしまうのは何故なんだろう。これからはご家族やAK設計の皆さんを上の方から見守ってやってください♪♪♪そしてたまには私と日本酒でやりましょう。合掌

2017年7月27日木曜日

忘れ文:土田良夫さま20170713平井 真夫

久しぶりの長岡、中学時代に卓球部で走った栖吉川の河原にはいつも長陵の酒蔵が待っている。中学時代のやんちゃな奴は、東北中学バレー部、進学後も中越高校で全国大会に出場した運動神経の良い奴だった。当時、高校教員で監督だった義理の兄が風呂屋兼宴会場の跡取りだったこともあり、奴は板前となり私の身近で働く姿を見せていた。どんなきっかけだったか忘れたが殿町で野武士という名前の居酒屋を元気よくやっていた時期もあった。何年が過ぎただろうか、還暦の同級会を水上でやった時の帰りに奴は半生を話してくれた。廃業、離婚、自分自身を苦しめる不幸など、言葉を口にしながらも軽く微笑む姿が、私には長岡の閑散とした風景に似て侘しく見えた。福島の原発汚染処理の仕事で稼ぎ、業務中に大動脈解離に見舞われ命拾いをしながらも、不自由な足の代わりにオートバイ移動となった奴は、なんだか陽気で自分を死に損ないと笑って見せた。それでも何回かの同級会で会っているうちに気兼ねのない奴の性格に甘えて、お互いの近況を話し合うようになっていた。この日の散歩で『レンガの長陵』を描き上げたころ小雨となってしまった。早朝、携帯電話で奴を呼び出したら、その日は軽自動車でやってきた。長陵の玄関で雨宿りする私に、元気かと声をかけてくれ実家まで送ってくれた。癌が肺に見つかった時には手遅れだったようで、全ての処置をしない方針だと聞かされた。以前にも困ったことがあると電話をしてきたが、あの時は切なかった。幼き日に引き裂かれた息子さんの突然の不幸、数か月して癌の発見、入院。5月に見舞いに行くと、あの時は悪かったなとベッドで一言。私は用事を作り見舞うつもりだったが、本人は余命を告げられていたらしく、『三太が長岡に来るまでもつかな・・・』と話し、私を苦しめたことだった。5月の終わりに長岡に行き見舞いには川西屋のアイスキャンデーを持参した。嬉しそうに食べてくれたし、それなりに元気そうで安心していたが1か月半で天国に逝ってしまった。知らせは発信人の判らないショートメールだった。奴の中学高校時代の親友佐藤久義の奥さんからの連絡だった。亡くなる一週間前に見舞いに行くと『川西屋のキャンデー』が食べたいと言ったそうだ。奴が言うには、佐藤久義は気持ちのいい奴で、足の不自由な自分を温泉に連れって行ってくれたそうだ。今頃、良夫と久義そして息子さんは天国温泉に浸かっているのかもしれない。先日、私の家の前で『ツクツクボウシ』が弱って休んでいた、水が欲しかったのか知らせに来たのか。私は草むらを探した・・・合掌 平井真夫