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2009年2月24日火曜日

忘文・大滝陸奥先生・キャッチandリリース




キャッチand リリース

大学を出たばかりの大滝陸奥という新任先生は、我々小学三年の子供たちの心をいち早くキャッチしたと思う。本人がどれだけ確信を持って私たちに接し実践したのかは定かではない。子供たちからすればとても怖くて同時に頼もしい一人の大人であった。数十年も前から生きてきた自信に満ち溢れた大人であった。昭和30年代初め、当時子供は十羽一からげで個性なんて気にしてくれる人もいなかった時代、大滝先生は子供たちに何か自分は特別な人間なのだと感じさせてくる人であった。そしてクラスの子供はお互いを守り合う特別な仲間だと感じさせてくれた。しかし現代の子供たちは生まれたときから歯止め無く甘やかされ、自分だけは、わが子だけは特別という環境で集団生活を過ごしているように思われる。生意気な餓鬼や弱々しいもやしっ子が多くて困っているが、その昔約50年前であれば先生や私たちの接し方がどんな事だったのか、そして私たちに何を教え、何を残し、何を共有しようとしていたのか、この年になってもう一度考えてみたく筆を執った。

昭和31年 小学3年の我々のクラスは『こねこ』と名付けられ、何となく特別なクラスとなった。人はなぜご飯を食べ、何で勉強をしなければいけないのか、『雨にも負けず』の文章などを見える所に貼り付け、分かりやすい理念を掲げていた。
1.2年ではニックネームの無かった子供たちに沢山のあだ名を付け、親しみを込めて呼んでくれた。子供同士もすぐにお互いを呼び合い特別なもの同志に感じてきたものだ。可愛いとかでなくその時の気分で付けられたものだから、今となっては呼びにくいあだ名もある。私は『三太』を大切な宝物にしている。女の子は『三ちゃん』と呼んでくれた。初め風呂屋の息子だからと風呂屋の三助でどうだと言われた、ショックだったことを思い出す。1.2年から一緒だった親友河口君が三助は可哀想だと抗議してくれ、映画で見たばかりの『おらー三太だー!』から三太にしたらと言ってくれた。私はおおいに助けられたわけである。相撲で『けたぐり』の必殺技を持つ親友長部君は、掃除の時の姿が『あねさんかぶり』で女の子のようだと『ねえちゃん』と名付けられた。今となっては呼びにくい。『リキ』『とこ』『のっぽ』『ヨコ』・・・又皆に会いたいものだ。余談になるが5年のクラスになると、新任でバリバリ元気で素敵な渡辺先生に大滝方式が引き継がれ、あだ名で呼びあう、仲が良くて活発なクラスがもう一つ出現した。昭和三十年前半の当時、地方都市長岡の小学校としては革新的なやり方で、若手の先生や新しい教育を受けた先生方には、魅力的なクラスの運営方式であったろう。反発もあったと思われるがやはり先駆者大滝先生の影響である。

教室の机の配置は面白かった。先生を取り囲むように工夫されており、窓側と廊下側二列分が内側に向いていた。4つのゾーンに分かれていたので自分の場所が分りやすく、今でも自分がどこにいたか、何回かの席替え毎に覚えているし、自分のとなりが誰だったかも懐かしく想い出せる。そして席を決めるのが大変であった。先生は全てに自分の意思を示すことを求めていた。基本的に自分が並びたい人を紙に書き箱にいれるのである。子供に随分きついことをさせたとも思うが、これらによって三太は自分の意思をはっきりさせなければ何も始まらないことを学んだ。初めての席替えのとき決心が出来なかったが、それを教訓に次回からは、自分で意思を示した気がしている。私はこの年になっても会いたいときには友達に会いに行く。時間はいつも今しかないそんな気がしている。ただし並びたい人は異性に指定されていた。親友と並びたいと主張したが、しっかり否決された。やはり女の子の名前を書くのは恥ずかしかった。どうして男と結婚出来ないのか分らなかった歳でもあった。先生に息子が誕生して、なんとなく理解したような気がしている。自分の意見は『はっきり言う』習慣を大滝先生から学んだ。もっとも言い過ぎて苦労もしているが・・・。

親友河口くんはクラスの中で大きくて目立つ存在だった。ある日二つ違いの上級生に喧嘩を売られた。普段見たことのない河口君の悔しそうな顔に我慢できず、私は授業開始前に先生に理不尽な言いがかりだと発言した。大滝先生は即座に『上級生を呼んで来い!』と言い、何人かで授業中の上級生のクラスの先生に事情を話し、当人を我がクラスに呼びつけた。少し乱暴のようであるが、普段から乱暴な子で担任も理解してくれたのであろう。正式に謝らせたのである。クラスの皆と先生の理解により私たちは団結すれば大きなものにも立ち向かえることを覚えたのである。これを機会に『こねこ』はなにかと一致団結するようになった。しかし今度は三太も奴に狙われ危ないからと、上級生の親しいお兄ちゃんから相撲の技『呼び戻し風首投げ』を伝授してもらった。自信は付いたがやはり一人では怖かった、友達となら勝てそうだったことから、力を合わせて立ち向かうことを学んだ。このことはのちに建築の仕事をする上で大変な力となったし、楽しいことであった。喜びや苦労を分かち合うことは楽しいし力も湧いてくる。誰かのために自分が役立てることは嬉しいものだ。

こねこの文章を書く時は本棚から昔の集合写真を出して見ている。懐かしくて喧嘩した子でも会いたい、いろんな奴に会いたい。親猫大滝陸奥はもういない、リキのほか何人かはあちらの空の上に行ってしまった。記念写真は四年最後の冬に撮影した。本当に寂しくなるなんて思ってもいなかった、漠然と生きていたし、なんとなく並んだように思うがやはり親猫が仕切って位置決めをした記憶がある。構図は悪いし、早くから黄ばんでしまったが、綺麗な写真で大好きだ。写真代金を払った記憶も無いから先生の自腹だろう、私費で思い出を残してくれた親猫大滝陸奥に感謝!!!もうあなたの年をとっくに追い越してしまいました。勿論桂子先生もね!
五年のクラス編成で先生のクラスに入れなかった、自分は先生と一緒だと信じていたからショックは大きかった、捨てられた気がしたものだ。今思うと心配な子や面倒を見なければいけない子もいて、元気な子は大丈夫と思っていて他のクラスにされたという気もする。
好きな人と別れてしまう淋しさを学習してしまった。五年になり身長も伸びず、変化の無いクラスにモチベーションがどんどん落ちていった。よそのクラス担任だった大滝先生は、三太を市役所で収録する市内向けの学校放送や、台詞は一つしかないけど学年劇の出演など、チャンスを何度かくれた。しかし普段の会話と違い、考えていることが素直に言えず、後悔が残った。発表の機会などがあるときは、準備して望まなければならないこともあるようだ。そしてまもなくして先生は日赤病院に入院した。その後何回も先生と合う機会があり、ふるさと長岡に帰ると友達を呼び出し飲みながら先生に電話したものだ。いつの間にか先生の年を越え、すでに我々は解放され、リリースされている立場であることに感謝したい。私たちは心を通わせ、先生とどこかでつながり、そして見送られたのかもしれない。先生の死を機会に皆に会えた時は、懐かしく又嬉しかったことを覚えている。後輩にもそして新潟県内にも同じ同志がたくさんいるように思う。だからこそ、その懐かしい母なる川を目指し『親猫こねこ』や『まだ見ぬ仲間たち』との再会を楽しみにしている。
                  
                  20080215 三太 ・平井 真夫

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