「忘文」稲垣五郎君の語りによって始まるフジテレビ朝の番組がある。私は人生の恩人や友達にVeneziaからの忘文として、日頃言えない言葉を水彩画に添えて絵はがきを出してみたいと思います。人が生きていくための街のあり方を建築家の目線で考えたり、時には自分の生き方を親戚や友達に相談したり考えたり、日本から離れたときに純粋に考えたことなど、小さな絵はがきサイズに託して考えて見たい。出来れば自分への独り言など人生の反省になればとも考えブログを公開をします。宛名は匿名としてますが私の目線で実名も入っています、あくまでも尊敬する方々です。宜しくお願い致します。 Ciao Venezia!
2009年2月28日土曜日
想い・絵を描く時英文venezia07024 平井 真夫
Streets in Venice are just like a maze.
Red roofs from the sky make me feel peaceful and quiet.
I really enjoyed sketching the historic "City of Water" .
I could feel the passage of affluent time.
People in Venice have been maintaining their decaying buildings
and living with waterways among numerous small islands
in the marshy Lagoon for hundreds of years.
I admire their attitudes and way of living.
Red roofs from the sky make me feel peaceful and quiet.
I really enjoyed sketching the historic "City of Water" .
I could feel the passage of affluent time.
People in Venice have been maintaining their decaying buildings
and living with waterways among numerous small islands
in the marshy Lagoon for hundreds of years.
I admire their attitudes and way of living.
2009年2月26日木曜日
忘文・HI.K様・運河沿いのテラス・venezia07019 平井 真夫
初めての葉書かな HI.K 様
いつも案内状や年賀状だけで、今回は君に宛てた初めての葉書かもな。浅草での遼三を交えての飲み会は江戸風で面白い店でした。いろんなこと知っていて俺から見ると君は一流の仕事人で何でも心得てる大人だね。俺たちは中1から卓球部では仲間でライバルだったけど、その時から君はませていたし、大人だった気がしてたよ。早々と新しいスタイルのシェークハンドに持ち替えてカッコいいトレーナーを着込みきめてたね!!何とか俺も強気で対戦してた気がするよ!35歳の時人生半ばということから俺たちはクラブ仲間と頻繁に会うようになり、そんな時に誰にでも、君は気を使い場を暖かくしていてくれたし、歌も旨かったね!新潟ブルースうまっかったね。生まれ故郷の歌は必須だよな!でもなぜか俺は苦手なんだよ!俺は浮き草で君は根が生えてるのかもしれない。君にとってのanother sky を聞きたかったね。たかが歌でも歌うのは自分だからそこに入る感じがないと歌えないんだよ!!やっぱり子供っぽいんだよ、俺は。奥さんと一緒に個展で買ってくれた絵は君たちを楽しくしてくれたかな?
いつか又俺たちはどこかの世界で会うんだろうな!その時は先輩としてお前が俺をしごくのかもな!その時まで遼三たちと遊んでいてくれ。20090209と言う日と故郷長岡藩として、お前さんの特徴のある苗字の由来を聞きそびれたけど、きっとお前を忘れないよ。俺のanother sky 探しを観ていてくれよ。
忘文・HI.K先生venezia07016 平井 真夫
拝啓Hi.K先生
長い空白の時間を飛び越えて、いつかお会いしたいと心のどこかで考えていました。お会いして自分を見て欲しかったし、先生からも感じたいことが沢山ありました。
亡くなった友達が中学時代の先生と交信があり、偶然東北中学創成期の先生方の名簿に先生が載っていなかった不思議さが始まりでした。問い合わせの葉書の返事は3ヶ月ぐらいしてお詫び状と一緒に先生の住所を書いてありました。
授業は小学校から大学まで確かに何かしら身についた気もしますが、多分肉体みたいなもので、いつの間にか大きくなっていて、これこれの御蔭なんて一寸思えないものです。教える、学ぶ関係はそんなことでない気がしています。
そこに行くと授業以外の影響は心の部分に響いてる気がします。人を愛したり尊敬したり、自分の心の成長にリンクしている実感があります。『太宰治の走れメロス』や『星空を見て一晩外に布団を出して寝ること』自分を考えるきっかけになりました。答えを探して随分な歳になりましたが、こんなテーマを伝えようとした先生は中学では先生だけでした。
私は学生に必ず言うことがあります。専門の教授とは別に共通課程の先生でいいなと思う先生を見つけて話せるようにしなさい。大学にはいろんな人が居るから、それがキャンパスで、建築家はその場を設計するのだからと。
先生の葉書に書いてあったフランスの詩人の言葉・・、先生の信条を理解できるようになりたいと思っています。
●教えるとは『希望を共に語ること』
●学ぶとは『誠を胸に刻むこと』
考えさせられる言葉です。恩を心に刻み、立場の違うものでも夢を共有できる社会を目指したいものです。そして素直に誰からも学びたいものです。お身体をご自愛ください。敬具
亡くなった友達が中学時代の先生と交信があり、偶然東北中学創成期の先生方の名簿に先生が載っていなかった不思議さが始まりでした。問い合わせの葉書の返事は3ヶ月ぐらいしてお詫び状と一緒に先生の住所を書いてありました。
授業は小学校から大学まで確かに何かしら身についた気もしますが、多分肉体みたいなもので、いつの間にか大きくなっていて、これこれの御蔭なんて一寸思えないものです。教える、学ぶ関係はそんなことでない気がしています。
そこに行くと授業以外の影響は心の部分に響いてる気がします。人を愛したり尊敬したり、自分の心の成長にリンクしている実感があります。『太宰治の走れメロス』や『星空を見て一晩外に布団を出して寝ること』自分を考えるきっかけになりました。答えを探して随分な歳になりましたが、こんなテーマを伝えようとした先生は中学では先生だけでした。
私は学生に必ず言うことがあります。専門の教授とは別に共通課程の先生でいいなと思う先生を見つけて話せるようにしなさい。大学にはいろんな人が居るから、それがキャンパスで、建築家はその場を設計するのだからと。
先生の葉書に書いてあったフランスの詩人の言葉・・、先生の信条を理解できるようになりたいと思っています。
●教えるとは『希望を共に語ること』
●学ぶとは『誠を胸に刻むこと』
考えさせられる言葉です。恩を心に刻み、立場の違うものでも夢を共有できる社会を目指したいものです。そして素直に誰からも学びたいものです。お身体をご自愛ください。敬具
2009年2月25日水曜日
税関岬、トリニテ岬、塩の岬 venezia06009 平井 真夫
2009年2月24日火曜日
運河の脇道・Venezia07005 平井 真夫
忘文・大滝陸奥先生・キャッチandリリース
キャッチand リリース
大学を出たばかりの大滝陸奥という新任先生は、我々小学三年の子供たちの心をいち早くキャッチしたと思う。本人がどれだけ確信を持って私たちに接し実践したのかは定かではない。子供たちからすればとても怖くて同時に頼もしい一人の大人であった。数十年も前から生きてきた自信に満ち溢れた大人であった。昭和30年代初め、当時子供は十羽一からげで個性なんて気にしてくれる人もいなかった時代、大滝先生は子供たちに何か自分は特別な人間なのだと感じさせてくる人であった。そしてクラスの子供はお互いを守り合う特別な仲間だと感じさせてくれた。しかし現代の子供たちは生まれたときから歯止め無く甘やかされ、自分だけは、わが子だけは特別という環境で集団生活を過ごしているように思われる。生意気な餓鬼や弱々しいもやしっ子が多くて困っているが、その昔約50年前であれば先生や私たちの接し方がどんな事だったのか、そして私たちに何を教え、何を残し、何を共有しようとしていたのか、この年になってもう一度考えてみたく筆を執った。
昭和31年 小学3年の我々のクラスは『こねこ』と名付けられ、何となく特別なクラスとなった。人はなぜご飯を食べ、何で勉強をしなければいけないのか、『雨にも負けず』の文章などを見える所に貼り付け、分かりやすい理念を掲げていた。
1.2年ではニックネームの無かった子供たちに沢山のあだ名を付け、親しみを込めて呼んでくれた。子供同士もすぐにお互いを呼び合い特別なもの同志に感じてきたものだ。可愛いとかでなくその時の気分で付けられたものだから、今となっては呼びにくいあだ名もある。私は『三太』を大切な宝物にしている。女の子は『三ちゃん』と呼んでくれた。初め風呂屋の息子だからと風呂屋の三助でどうだと言われた、ショックだったことを思い出す。1.2年から一緒だった親友河口君が三助は可哀想だと抗議してくれ、映画で見たばかりの『おらー三太だー!』から三太にしたらと言ってくれた。私はおおいに助けられたわけである。相撲で『けたぐり』の必殺技を持つ親友長部君は、掃除の時の姿が『あねさんかぶり』で女の子のようだと『ねえちゃん』と名付けられた。今となっては呼びにくい。『リキ』『とこ』『のっぽ』『ヨコ』・・・又皆に会いたいものだ。余談になるが5年のクラスになると、新任でバリバリ元気で素敵な渡辺先生に大滝方式が引き継がれ、あだ名で呼びあう、仲が良くて活発なクラスがもう一つ出現した。昭和三十年前半の当時、地方都市長岡の小学校としては革新的なやり方で、若手の先生や新しい教育を受けた先生方には、魅力的なクラスの運営方式であったろう。反発もあったと思われるがやはり先駆者大滝先生の影響である。
教室の机の配置は面白かった。先生を取り囲むように工夫されており、窓側と廊下側二列分が内側に向いていた。4つのゾーンに分かれていたので自分の場所が分りやすく、今でも自分がどこにいたか、何回かの席替え毎に覚えているし、自分のとなりが誰だったかも懐かしく想い出せる。そして席を決めるのが大変であった。先生は全てに自分の意思を示すことを求めていた。基本的に自分が並びたい人を紙に書き箱にいれるのである。子供に随分きついことをさせたとも思うが、これらによって三太は自分の意思をはっきりさせなければ何も始まらないことを学んだ。初めての席替えのとき決心が出来なかったが、それを教訓に次回からは、自分で意思を示した気がしている。私はこの年になっても会いたいときには友達に会いに行く。時間はいつも今しかないそんな気がしている。ただし並びたい人は異性に指定されていた。親友と並びたいと主張したが、しっかり否決された。やはり女の子の名前を書くのは恥ずかしかった。どうして男と結婚出来ないのか分らなかった歳でもあった。先生に息子が誕生して、なんとなく理解したような気がしている。自分の意見は『はっきり言う』習慣を大滝先生から学んだ。もっとも言い過ぎて苦労もしているが・・・。
親友河口くんはクラスの中で大きくて目立つ存在だった。ある日二つ違いの上級生に喧嘩を売られた。普段見たことのない河口君の悔しそうな顔に我慢できず、私は授業開始前に先生に理不尽な言いがかりだと発言した。大滝先生は即座に『上級生を呼んで来い!』と言い、何人かで授業中の上級生のクラスの先生に事情を話し、当人を我がクラスに呼びつけた。少し乱暴のようであるが、普段から乱暴な子で担任も理解してくれたのであろう。正式に謝らせたのである。クラスの皆と先生の理解により私たちは団結すれば大きなものにも立ち向かえることを覚えたのである。これを機会に『こねこ』はなにかと一致団結するようになった。しかし今度は三太も奴に狙われ危ないからと、上級生の親しいお兄ちゃんから相撲の技『呼び戻し風首投げ』を伝授してもらった。自信は付いたがやはり一人では怖かった、友達となら勝てそうだったことから、力を合わせて立ち向かうことを学んだ。このことはのちに建築の仕事をする上で大変な力となったし、楽しいことであった。喜びや苦労を分かち合うことは楽しいし力も湧いてくる。誰かのために自分が役立てることは嬉しいものだ。
こねこの文章を書く時は本棚から昔の集合写真を出して見ている。懐かしくて喧嘩した子でも会いたい、いろんな奴に会いたい。親猫大滝陸奥はもういない、リキのほか何人かはあちらの空の上に行ってしまった。記念写真は四年最後の冬に撮影した。本当に寂しくなるなんて思ってもいなかった、漠然と生きていたし、なんとなく並んだように思うがやはり親猫が仕切って位置決めをした記憶がある。構図は悪いし、早くから黄ばんでしまったが、綺麗な写真で大好きだ。写真代金を払った記憶も無いから先生の自腹だろう、私費で思い出を残してくれた親猫大滝陸奥に感謝!!!もうあなたの年をとっくに追い越してしまいました。勿論桂子先生もね!
五年のクラス編成で先生のクラスに入れなかった、自分は先生と一緒だと信じていたからショックは大きかった、捨てられた気がしたものだ。今思うと心配な子や面倒を見なければいけない子もいて、元気な子は大丈夫と思っていて他のクラスにされたという気もする。
好きな人と別れてしまう淋しさを学習してしまった。五年になり身長も伸びず、変化の無いクラスにモチベーションがどんどん落ちていった。よそのクラス担任だった大滝先生は、三太を市役所で収録する市内向けの学校放送や、台詞は一つしかないけど学年劇の出演など、チャンスを何度かくれた。しかし普段の会話と違い、考えていることが素直に言えず、後悔が残った。発表の機会などがあるときは、準備して望まなければならないこともあるようだ。そしてまもなくして先生は日赤病院に入院した。その後何回も先生と合う機会があり、ふるさと長岡に帰ると友達を呼び出し飲みながら先生に電話したものだ。いつの間にか先生の年を越え、すでに我々は解放され、リリースされている立場であることに感謝したい。私たちは心を通わせ、先生とどこかでつながり、そして見送られたのかもしれない。先生の死を機会に皆に会えた時は、懐かしく又嬉しかったことを覚えている。後輩にもそして新潟県内にも同じ同志がたくさんいるように思う。だからこそ、その懐かしい母なる川を目指し『親猫こねこ』や『まだ見ぬ仲間たち』との再会を楽しみにしている。
20080215 三太 ・平井 真夫
大学を出たばかりの大滝陸奥という新任先生は、我々小学三年の子供たちの心をいち早くキャッチしたと思う。本人がどれだけ確信を持って私たちに接し実践したのかは定かではない。子供たちからすればとても怖くて同時に頼もしい一人の大人であった。数十年も前から生きてきた自信に満ち溢れた大人であった。昭和30年代初め、当時子供は十羽一からげで個性なんて気にしてくれる人もいなかった時代、大滝先生は子供たちに何か自分は特別な人間なのだと感じさせてくる人であった。そしてクラスの子供はお互いを守り合う特別な仲間だと感じさせてくれた。しかし現代の子供たちは生まれたときから歯止め無く甘やかされ、自分だけは、わが子だけは特別という環境で集団生活を過ごしているように思われる。生意気な餓鬼や弱々しいもやしっ子が多くて困っているが、その昔約50年前であれば先生や私たちの接し方がどんな事だったのか、そして私たちに何を教え、何を残し、何を共有しようとしていたのか、この年になってもう一度考えてみたく筆を執った。
昭和31年 小学3年の我々のクラスは『こねこ』と名付けられ、何となく特別なクラスとなった。人はなぜご飯を食べ、何で勉強をしなければいけないのか、『雨にも負けず』の文章などを見える所に貼り付け、分かりやすい理念を掲げていた。
1.2年ではニックネームの無かった子供たちに沢山のあだ名を付け、親しみを込めて呼んでくれた。子供同士もすぐにお互いを呼び合い特別なもの同志に感じてきたものだ。可愛いとかでなくその時の気分で付けられたものだから、今となっては呼びにくいあだ名もある。私は『三太』を大切な宝物にしている。女の子は『三ちゃん』と呼んでくれた。初め風呂屋の息子だからと風呂屋の三助でどうだと言われた、ショックだったことを思い出す。1.2年から一緒だった親友河口君が三助は可哀想だと抗議してくれ、映画で見たばかりの『おらー三太だー!』から三太にしたらと言ってくれた。私はおおいに助けられたわけである。相撲で『けたぐり』の必殺技を持つ親友長部君は、掃除の時の姿が『あねさんかぶり』で女の子のようだと『ねえちゃん』と名付けられた。今となっては呼びにくい。『リキ』『とこ』『のっぽ』『ヨコ』・・・又皆に会いたいものだ。余談になるが5年のクラスになると、新任でバリバリ元気で素敵な渡辺先生に大滝方式が引き継がれ、あだ名で呼びあう、仲が良くて活発なクラスがもう一つ出現した。昭和三十年前半の当時、地方都市長岡の小学校としては革新的なやり方で、若手の先生や新しい教育を受けた先生方には、魅力的なクラスの運営方式であったろう。反発もあったと思われるがやはり先駆者大滝先生の影響である。
教室の机の配置は面白かった。先生を取り囲むように工夫されており、窓側と廊下側二列分が内側に向いていた。4つのゾーンに分かれていたので自分の場所が分りやすく、今でも自分がどこにいたか、何回かの席替え毎に覚えているし、自分のとなりが誰だったかも懐かしく想い出せる。そして席を決めるのが大変であった。先生は全てに自分の意思を示すことを求めていた。基本的に自分が並びたい人を紙に書き箱にいれるのである。子供に随分きついことをさせたとも思うが、これらによって三太は自分の意思をはっきりさせなければ何も始まらないことを学んだ。初めての席替えのとき決心が出来なかったが、それを教訓に次回からは、自分で意思を示した気がしている。私はこの年になっても会いたいときには友達に会いに行く。時間はいつも今しかないそんな気がしている。ただし並びたい人は異性に指定されていた。親友と並びたいと主張したが、しっかり否決された。やはり女の子の名前を書くのは恥ずかしかった。どうして男と結婚出来ないのか分らなかった歳でもあった。先生に息子が誕生して、なんとなく理解したような気がしている。自分の意見は『はっきり言う』習慣を大滝先生から学んだ。もっとも言い過ぎて苦労もしているが・・・。
親友河口くんはクラスの中で大きくて目立つ存在だった。ある日二つ違いの上級生に喧嘩を売られた。普段見たことのない河口君の悔しそうな顔に我慢できず、私は授業開始前に先生に理不尽な言いがかりだと発言した。大滝先生は即座に『上級生を呼んで来い!』と言い、何人かで授業中の上級生のクラスの先生に事情を話し、当人を我がクラスに呼びつけた。少し乱暴のようであるが、普段から乱暴な子で担任も理解してくれたのであろう。正式に謝らせたのである。クラスの皆と先生の理解により私たちは団結すれば大きなものにも立ち向かえることを覚えたのである。これを機会に『こねこ』はなにかと一致団結するようになった。しかし今度は三太も奴に狙われ危ないからと、上級生の親しいお兄ちゃんから相撲の技『呼び戻し風首投げ』を伝授してもらった。自信は付いたがやはり一人では怖かった、友達となら勝てそうだったことから、力を合わせて立ち向かうことを学んだ。このことはのちに建築の仕事をする上で大変な力となったし、楽しいことであった。喜びや苦労を分かち合うことは楽しいし力も湧いてくる。誰かのために自分が役立てることは嬉しいものだ。
こねこの文章を書く時は本棚から昔の集合写真を出して見ている。懐かしくて喧嘩した子でも会いたい、いろんな奴に会いたい。親猫大滝陸奥はもういない、リキのほか何人かはあちらの空の上に行ってしまった。記念写真は四年最後の冬に撮影した。本当に寂しくなるなんて思ってもいなかった、漠然と生きていたし、なんとなく並んだように思うがやはり親猫が仕切って位置決めをした記憶がある。構図は悪いし、早くから黄ばんでしまったが、綺麗な写真で大好きだ。写真代金を払った記憶も無いから先生の自腹だろう、私費で思い出を残してくれた親猫大滝陸奥に感謝!!!もうあなたの年をとっくに追い越してしまいました。勿論桂子先生もね!
五年のクラス編成で先生のクラスに入れなかった、自分は先生と一緒だと信じていたからショックは大きかった、捨てられた気がしたものだ。今思うと心配な子や面倒を見なければいけない子もいて、元気な子は大丈夫と思っていて他のクラスにされたという気もする。
好きな人と別れてしまう淋しさを学習してしまった。五年になり身長も伸びず、変化の無いクラスにモチベーションがどんどん落ちていった。よそのクラス担任だった大滝先生は、三太を市役所で収録する市内向けの学校放送や、台詞は一つしかないけど学年劇の出演など、チャンスを何度かくれた。しかし普段の会話と違い、考えていることが素直に言えず、後悔が残った。発表の機会などがあるときは、準備して望まなければならないこともあるようだ。そしてまもなくして先生は日赤病院に入院した。その後何回も先生と合う機会があり、ふるさと長岡に帰ると友達を呼び出し飲みながら先生に電話したものだ。いつの間にか先生の年を越え、すでに我々は解放され、リリースされている立場であることに感謝したい。私たちは心を通わせ、先生とどこかでつながり、そして見送られたのかもしれない。先生の死を機会に皆に会えた時は、懐かしく又嬉しかったことを覚えている。後輩にもそして新潟県内にも同じ同志がたくさんいるように思う。だからこそ、その懐かしい母なる川を目指し『親猫こねこ』や『まだ見ぬ仲間たち』との再会を楽しみにしている。
20080215 三太 ・平井 真夫
2009年2月21日土曜日
忘文・MA.K様・明日は222の誕生日・Venezia06005 平井 真夫
お元気ですか MA.K 様
久しぶりに葉書を出します。高校の時以来、人生も半ばに再会してからは意見が合うし、お互いお酒を飲んでよく話したね。苦労したからだろうか、お前は格好つけない気さくな性格を身に付けていたね。その生き方や価値観に同感してたよ。幾ら自分から垣根を低くして、失礼にならない付き合いしていても、たまには自分を嫌いに思う人はいることは私の人生にも何度かありました。個性的な人とは特に難しいよね。悪意はなくても何か食い違うんだよね。去年眞晤の居る大連に行ってきたよ。とてもよくしてもらいました。お前の親友だから俺は楽しかったよ。彼のビジネスマンとしての仕事のスタイルやおおらかさは高校時代の女子が憧れるのも解る気がしたよ。眞晤の兄ちゃんと俺の仙台の兄貴は親友だから、小さいときから俺や姉はお兄ちゃんに遊んでもらったものだ。二人はいいバランスなんだよ。ところで最近コブクロの「桜」は一人で歌ってるよ。俺の方が歌詞を口が廻らない時からお前がハモッテやると練習してくれたね。なんか懐かしいよ。二人用の歌だから俺にはきついけど、人間ひとり!!と覚悟したり、複雑だけど!!昔はいろんな話をしてくれたよね、面白かったし励みになったものだ。相談相手をしてたつもりがかえって迷惑かけた様子!!絵の壁が曲がってるトコが面白いと言ってたね!おれたちの周りはきっちりばっかりはしてないんだよ。でもお前はそんな曖昧さじゃ、だめなんだと!俺にも解ってるつもりなんだけど・・・・・・・・明日の222の誕生日に寄せて
追伸、そして来年は平成22年だから22222なんだね。いい年になると良いね。
2009年2月20日金曜日
忘文・TO.F様・北の教会へ・Venezia07017 平井 真夫
2009年2月18日水曜日
忘文・我が母校・Venezia06020 平井 真夫
工房・化学実験棟竣工式挨拶『感謝の言葉』
思えば40年前、大学入学式の前日キャンパス内にあった寮に入ったのがこの地との出会いでした。キャンパス、イコール寮生活でした。工事中、今の学生達を見る度に昔の友達や自分を探してしまいました。
この冬は日本海側の豪雪に助けられ、関東は晴天が続く毎日で、天の恵みに頂き本当に助けられました。その間、私に出来ることは、代々木の自宅に近い明治神宮にお参りすることだけでした。
しかし、工期は厳しく7月25日から6ヶ月、1月に上棟し残る2ヶ月弱が仕上げと外構でこの時期が一番厳しい時期でした。一番感謝したいのが清水建設の施工力レベルの高さでした。鉄筋、型枠の正確さと工程を推進する力。13000人もの人々の上に立ち、導く底力を見てもらいました。伊藤工事長そして現場に、設計打ち合わせに尽力された久原工事長、奥崎主任、有難うございました。本当にいつ寝ていたのか、本当によく頑張って頂きました。
大きな桜や梅は工事中仕事の邪魔でしたが残すことが出来ました。感謝しています。40年来の歴史的要素は守らなければなりません。最近のキャンパスの風景にパブリシティーの欠如を感じていました。庭であれ、斜面であれ、階段であれ、廊下であれ、テラスであれ、それらを大切にすることで社会性が身に付く学生が育つと考え、設計しました。
ふるさと母校に帰る気持ちは嬉しい毎日でした。学生寮の仲間は兄弟。建築の波多江先生、武藤章先生、山下司先生は父親。私にとって母はクラブ活動の美術部でした。キャンパス全てが思い出です。これからのキャンパスが環境整備に尽力され、心豊かなエモーション(EQ)が評価される工学系の学生が巣立って行くことを祈念しまして、設計者の感謝の言葉といたします。有難うございました。20060401工房・化学実験棟設計者 株式会社昴設計 平井真夫
2009年2月12日木曜日
忘文・TU.Y先生・サンマルコ広場から・venezia06032 平井 真夫
拝啓 TU.Y 先生
私は今憧れのベニスに居ます。学生時代先生の御蔭で建築の面白さを学びました。就職してから三年位して研究室と先生の企画によるヨーロッパの旅は更にいい勉強になりなした。給料も少なくて金額的に無理だったのですが4番目の兄が全額貸してくれ(二年で返済)、長兄が好きな一眼レフを買えと餞別をくれ実現したものでした。エジプト、ピラッミドから始まりギリシャ、パルテノン、ニケ神殿、イタリア各地を廻りベニスを経由しスイス、フランス、北欧と古代から近代建築を廻る旅は私にとって建築を愛し、頑張るだけの存在にさせて頂いた貴重な時間でした。十年ほど前にも10日程ベニスで運河をスッケチする旅をして以来のベニスです。今度は2週間ほどこちらに居ますので、先生に会える恒例のOB会には出れません、その分こちらでサンマルコ、小さな広場や運河のアノニマスな空間の醍醐味を絵にしてみたいと思っています。サンマルコ広場の空間は絵には出来ませんが空間を構成している街の建物(行政館)、サンマルコ寺院から小広場に面して美しいドゥカーレ宮殿、鐘楼の変化にはいつも惚れ惚れします。CANAL GRANDEへの空間の流れと淀み、逆に大運河に面して輝く美しく毅然とした姿に心を躍らせています。旅人に成りきってしまいます。映画「旅情」や「ベニスに死す」のドラマが想い出され、一層気分は高まります。今回はパリで先生に言われたように「エッフェル塔に登って街をつかめ!」オノボリサンと思われようと是非、鐘楼に登りベニスを鳥観してみます。一人で居ると、かつて言われたこと!いいアドバイス!今ここに居る自分を導いてくれた先生や兄弟に感謝できる素直な自分になれることに気がつきました。帰ったら仙台や長岡に酒を飲みに行きたいと思います。勿論柿生には一番に!!!お身体をご自愛ください。敬具
2009年2月10日火曜日
想い・ベニスはウォータバスで・venezia06031 平井 真夫
はらはらどきどきでホテルに着きました。11月はやはり寒いです。ローマまで13時間の予定が追い風に乗って 1時間早く着きました。乗換えで焦ることなく、しかしものすごく遠いコンコースで入国審査とベニス行きのサテライトまで45分から1時間かかってしまいました。21:30分になってもゲートが開かずAZ1481は10分遅れでフライト22:35予定が23時少し前にベニスマルコポーロ空港に着きました。以前来た時は空港前がすぐ真っ黒な海でしたが随分様子が変わっていて、新しい空港の出口、ロータリーで本来乗り合いバス(中型の乗合船)までのリムジンバスを探すことに予定してました。安上がりで海からホテルのあるザッカリアにアプローチしたかったためです。23:45分、終バス、ラス前に乗りたくてロータリー前に立つと、個人タクシー(高級モーターボート)の運転手(イタリアのおっちゃん)が沢山客引きをしていました。誰彼かまわず「ウォーターバス?」と急ぎ足でスーツケースを転がしながら聞くと「歩いて10分」と方向を示してくれたので、そちらを見ると何人かスーツケスを転がしてる人がいる! リムジンを探すより、自分の足の方がこの際確実かと人の後(情けない!!)をついて行った。途中通路が分かれていて、左に行く紳士について行ったら駐車場で消えてしまい、ぶったたまげてしまいました。元来た別れ道に戻り右に行くと海が見え、やっと船のあるところに着きました。シーズンオフはレッド、ブルーラインが一緒になってるみたいでした。25キロのスーツケースと10キロのバックは重い!!手元資料を見せて「SAN ZACCALIA」と念を押し乗り込むと、レッドラインは寄港が違うんだけど23:15分に出発してしまいました。心配でしたが無事ホテル「VILLA IGEA」前の「SAN ZACCALIA」に着きました。期待に反して別館で運河の見えない部屋ですが机があり、悲しい程の中庭に面した、それでも絵を描くには充分な部屋に着きました。やっとこすっとこ、それでも何とか22時間半の移動の一日が終わりました。明日は前来たとろを廻ってみます。さあー!!!一人だ自由だ!!
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